読書感想文その1

人生初の読書感想文

 を、書く。一応は学校教育を受けた人間なので読書感想文を今まで全く書かなかったのかと言えば嘘になる。サボれるだけサボりはしたが、一度や二度は書いたはずだ。ただ、難しいとか面倒臭いという以上に読書感想文というものがとても恥ずかしくて、なるべく「感想文」にならない形で、自分の感情を表明しないように書いていたような気がする。あまりにも昔のことで思い出せない。この読書感想文は完全に独り言として書く。
 読書感想文は恥ずかしい。何故か。
 読書に限らずとも感想というものは、それを無数に用意すればその人の人格を推定・復元できるものではないかと思う。人間の人格は何がそれぞれを異ならせるのかと言えばそれは、何を面白がるのか・何を嫌がるのか、というところではないだろうか。ある入力がどのような出力を返すのか、つまり数列から母関数を求めるように、読書感想文は物語という非実在非日常の出来事と言う入力に対する感想という出力を表明することで、いわば日頃は服で隠している肌を晒すように真に生身に迫られる恥ずかしさがある。
 そして恥ずかしいのは晒すことだけでもない。人格だと思いこんでいる感情の中に矛盾が見いだされるのも恥ずかしい。人格の未熟なうちは面白いものと嫌なものが同時に存在するとき、どちらか一方に気付かなかったり無視したり、無意識に感情の内的矛盾を発生させて、それでいて自分で矛盾には気付かないということはしばしばあるだろう。そして今の自分にも十分にそういった未熟さは残っていると思う。そんな未熟な人間が感想文なるものをいくつも書けば、はたから見て「あれを嫌がるくせにこれは面白がるのか」と、思われるようなことになりかねないし、もし幸いにそうならなければ自分の最も根源的な人格に迫られることになる。
 改めて言うが私が今まで何度か書いた読書感想文モドキは嘘の感情をもって書いたか、感情的感想を書かなかった。書いたところで「面白かったです」程度のことだっただろうと思う。仮にそう書いていたとしても面白かったというのは嘘に違いない。私は成人するまでほとんど小説を読んだ経験がなく、その中でも読書感想文のために読んだ本を楽しんだ覚えはない。
 そんな私も最近ようやく小説を面白いと感じるようになった。小説をほとんど読まなかった人生でも、本そのものはそれなりに読んできた。平均値があるならそれの2倍や3倍は読んできただろうと思っている。しかし読むのは大体が実用書の類で、読み終わっても知識の取得による成長の喜びのようなもの以外の面白さを感じることはほとんど無かった。それに、そもそも面白いものを面白いと思うこと自体に後ろめたさと恐怖があった。物語は特に学問的知識を得る時のような正義の後ろ盾が無いのが不安だった。エロいものをエロいと感じること・そう表明することとの区別がほとんどつかなかったし、結果的に今はそれも正しい感覚だったと思っている。しかし、マクドナルドのハンバーガーだろうが美味しいものは美味しいように、エロいものはエロい、面白いものは面白いと感じることが現時点の自分にとってどうしようもなく正しい事実なのだと受け入れるようになった。
 将来の自分は新しい知見によって違った感想を得るかもしれないし、今の私から見てもそちらの方が優れていると思うかもしれない。そういった意味では感想文はいつでも恥ずかしくなり得る。
 それなら何故今そんなものを書くことにしたかと言えば、積極的には、正義のない物事を楽しむことへの自信が少しはついたことへの記念と、恥ずかしくとも今の人格を保存したいという欲のためである。そして消極的には、恥ずかしさは内側にしかないという事を理屈の上では理解できたことが秘密(内側)と表現(外側)との垣根を小さくしたためだと言える。この長い長い言い訳は垣根の未だ大きなるを示すに違いないが、これでも小さくなったのだ。

殺戮にいたる病(我孫子武丸)

 名前だけは聞いたことのあった作品。Twitterフォロイーの読書好きが面白いと言っていたので読むことにした。
 読み終えて最初に感じたことは構成の気持ちよさだった。絶妙な人物配置に始まり、それぞれの人物がそれぞれに、科学的・物証的捜査としてではなくあくまでも心理的に犯人に迫り冒頭部に描かれる物語の収束へと向かう。叙述トリックは比較的シンプルな仕掛けであるものの、犯人像の不気味さも加わってやはり最後の最後まで謎を残す。最後の数ページなどではなく、本当に最後の1ページ1段落にタネ明かしを詰め込んでいるこの構成の無駄の無さは今まで読んだ中で一番の気持ちよさだった。この本の面白さは読書感想文でも書いてみようと思ったきっかけでもある。
 少し話は逸れるが、小説というものはどうしてこう、このサイズの本のこの程度の厚みになるのだろうと思っていた。文庫本にして厚み1cmから2cm程度、文字数で言えば10万字からせいぜい30万字。もちろん複数巻の作品などもあるのだが小説の8割ほどはこの範囲に収まるのではないかと思う。しかもこの厚みの中で、ものによっては尺稼ぎ文字数稼ぎとしか思えないパートの入るものもある。出版の都合があろうことは想像できるが、これは果たして究極に面白さや美を追求した分量だろうかと、読書の集中力が切れた瞬間にふとそう思う。
 この作品を読んでいる途中にも当然のように集中力の切れる瞬間はあった。しかしそれは話が退屈だからではなくて実際私の脳が疲れてきただけの話であり、この作品の場合、一度読むのを止めてまた脳が集中力を取り戻したら再開しようと考えた。ぼーっとした状態で読んだらもったいないと感じたのだ。ミステリー物、叙述トリック物として読書に集中力が要るのは普通のことなのかもしれないが、この作品では特に文章に無駄がなく、トリックに直接は関係しない部分でさえ一文も読み落としたくなかった。そして実際読み終わってから作品内に不要な部分はほとんど思い出せない。大学の博士の長い語りか、序盤の病院の老人との話か、そのくらいのほんの僅かしかない。
 この作品の感想として殺人事件としての犯人の異質さについては触れざるを得ないだろうが、私にとってそれは不気味さの表現であるとかそういったものではなくて、自分自身の欲と融合する哲学を完成させ損ねたような、主観的な合理性と欲の衝動性が混じり合ってむしろ尋常なものとして実在性を醸していると感じられた。この性質は犯人だけではなく、他の登場人物にも共通している。全員が変で全員が主観的にまとも。犯人だけが変だとか、犯人と雅子だけが変だとか、ボーダーラインがどこにでも見つかるような、そんな皮肉さえ含まれているように思う。
 一度読み終わった小説を再び読もうとはあまり思わないのだが、この作品は「本が読みたくなったらとりあえず読む本」のリストに入れておく。読んでいて気持ちのいい作品だった。
 あと、これは感想ではないが、この作品と次に書く深い河については地の文に人物の名前を使った後、「彼」や「彼女」という指示代名詞を使って主語目的語問わず当該人物を表していた。あまり慣れない表現だが、時代性だろうか。
 最後に。この作者は京都大学文学部哲学科中退なのだが、これほど信頼できる経歴も他にないだろうと思う。同経歴の他の小説家がいないか検索したが見つからなかった。もし同経歴の人がいたらぜひ小説を書いてみてほしい。

深い河(遠藤周作)

 この本は先の殺戮にいたる病を読み終えてすぐ手に取った。非ミステリーの、純文学のような面白い小説を読みたくてA→zonのレビューを参考にしながら探しているうちに見つけたものだったと思う。今確認してみると121件のレビューで平均4.4、時代的にA→zonの誕生以来は話題の本というわけでもないのに高い評価を受けている。カトリック教徒の作者が描くインドというテーマも面白そうだった。
 この作品を一言で言えば「インドに行って人生が変わった」という人生ペラペラの代名詞みたいなストーリーを重厚に描いたものだ。作品を馬鹿にしているのではない。実際に作中インドに行くグループの中にはペラペラ人生の若者もいれば、ビルマの戦地を命からがら生き残り、戦友の弔いを行おうとする老人もいる。そんな彼らを使って「インドに行って人生が変わった」という言葉を実験にかけるようなこの物語は「信仰とは何か」という問いを軸に奥行きが広がる。
 予め作者についての予備知識を仕入れてから読んでしまった影響もあるのだが、この本は作品を通して作者が見えるタイプの物語であり、その人柄が良さそうだという意味で好印象だった。作者、遠藤周作は1923年生まれ、戦前の時代の人でありカトリックの家に生まれ育ちカトリックと共に生きた人物らしい。
 そして「深い河」は1996年、作者73歳にて発行され、後すぐに亡くなられた彼の遺作となった。それを踏まえ、流石にというか、92年発行の殺戮にいたる病などと比べても文体や漢字表記・送り仮名に古臭さがあり、作中若いはずの人物の語り口もどうも若く感じられない。しかしそれは作者にとってのかねてよりの言葉遣いであるとして、仮に文章の癖だけを誰か若い人が書き直したとすれば、他は70代の人の書いたものと思えないようなキレが感じられる。それだけに、この小説は小説としては少し物足りなさもあった。
 この作品の本文は暴行を受けた大津の容態が急変するという「転」で終わっている。「結」についてはよく解釈すれば想像がつくと言えなくもないだろうが、私はきっと作者の命が書き上げるまで持たなかったのだろうと感じた。そのラストばかりでなく、大津と美津子の関係以外はおよそ問題が解決されていないか、多少の妥協があったようにも取れる。ただ、ひょっとすると多くの問題を解決できないまま終わってしまったのは大津であり、また作者であり、作者から見た事実の最後の一端が小説の最後であったようにも見える。
 大津はカトリックであったが、元からそうであるまま生きたわけではない。自分なりの信仰を探しながら彷徨い、結局は自らがカトリックと信じる「何か」に従う生き方を選び、ついに道化さながら異教の地に仕えた。その地で彼がジョークを身に着けていたのはもはや他人との対話から見つけるべきものがなくなったためではないか。
 結局、この作品では信仰が誰かを具体的に救った・救っているようには見えない。そんなものに身を捧げた大津は人からは人生を台無しにしたとまで言われ、しかし後悔はしていないと告げる。この作品はそれを傍から見ていてどうであれ、生き方を後悔せずに死ねることが唯一信仰の効用であるとでも言うかの如き中途半端な終わり方だった。そういう意味では小説風のジョークだったのかもしれない。面白い作品だった。

i(西加奈子)

 勘弁してほしい。
 とあるきっかけで500円の図書カードを貰ったのがきっかけで本屋に立ち寄り、膨大な量の本が並ぶなか私が頼りにしたのは本屋大賞だった。芥川賞直木賞に比べて読みやすい(本屋からすれば多くの人に売りやすい)作品を選ぶ文学賞であると誰かから聞いたのを思い出した。わずか500円の図書カードでハードカバーを買ってはタナボタ感が薄れてしまうので文庫化されている古めのノミネート作品をざっと見て回った結果、興味を引いたのがこの作品だった。
「この世界にアイは存在しません。」
 立ち読みしながら、いい出だしじゃないかと思った。が、よく見ればこの一文でもハズレの匂いを感じるべきだったようにも思う。雑に引用したのではなくて、3度確認して正確に書き取ったものだ。終わり鉤括弧の手前に句点がついている。現代日本語小説のほとんどでは採用されない記法だが、まさか校正が一行目を見落とすはずもない。結局、この記法は統一されて最後まで同じなのだが、そうした理由は分からない。理由は分からないものの、やはりこれは小説という体の作品であることを疑うべき要素だったと思う。
 読むのに使った時間と、500円を超えて支払った金の分だけ腹が立つのに、感想まで長々とは書きたくない。簡単に言って、この作品はエッセイの書き損ないを小説化し損なったような代物に感じた。
 まず、主人公の経歴があまりに作者と似ている、そして現実の社会的事件をふまえた現実世界を舞台としている、さらに思想が主人公のものか主人公のイエスマンのものしか出てこない上、地の文には時折作者の人格が直接的に挟まれる。こんなに偏りっぱなしの話を書くならエッセイにすれば良かったのにと、どうしても言いたくなる。この主人公は出自の悩みとともに深い考えを持っているかのように描かれるが、「悩んでいる」というアイデンティティーを補強するために理屈をつけるばかりで一向に悩みの解決に向かおうとはしない。つまりこれは、正義か悪かも分からないようなものを信じているより悩み続けている方が立派だという怠惰の理論で主人公が開き直る話で、皮肉なことに深い河とは対照的な精神を元にしている。
 それがなぜ皮肉であるかと言えば、この作品を読み終えた時の腹立たしさが「殺戮にいたる病」および「深い河」を読む原動力になったからだ。ひょっとすると小説という体のものではないかもしれないという点では深い河も同じなのだが、この作品に腹が立つのはそのような形式にすることへの自覚の無さと、思想への科学的態度の無さが原因であろうと思う。
 良いところを言えば、表現の生々しさであると思う。序盤は幼い頃の話であり、これは架空の人物の架空の思想や体験を生々しく未熟に描いているのだろうと感じながら後に変化と成長へ繋がるものだと思っていた。しかし読み進めて見れば主人公の考え方も周囲の考え方も特に変化はせず、結局生々しく感じたのは実に作者自身の思想だったと気付いたときは残念な思いでいっぱいになった。
 タイトルである「i」もわざわざ虚数の表現として持ち出した割には結局数学的性質とは何ら関係されない。「かつての高校数学教師には存在しないと言われたが、大学では存在すると言ってもらえた」、で終わり。これだけは何か面白い仕掛けがあるのだろうと考えていただけに、まったく虚を突かれた思いがした。虚数だけに。いやもう本当に洒落程度でいいから何かかけてほしかった。
 とばっちりかもしれないが小口側余白がページによって5mmもなくなる製本には出版社か印刷所にも苛立ったし、謎の対談をさせられてる又吉直樹も不憫だったし、これをノミネートした本屋大賞も信用しづらくなった。冒頭「勘弁してほしい」とはそれらをまとめてのことだ。
 結局長くなってしまったが、ある意味では人生で一番大きな読書体験とも言える出来事だったので記録しておいて損はないと思う。順番で言えば一番上に書くべきだったのかもしれないが、どうもそういう気にはなれなかった。今回の読書感想文はここまで。

表現による意味の圧縮とその展開によって起こる解釈の齟齬

うわっ……

 このタイトルは早い話が「意味の圧縮」のサンプルです。この記事のテーマをぎゅっと27字に押し込んだわけです。
 自分で書いて自分で読んでも「うわっ」となるわけですが、それはやはり27字で説明するには濃すぎる情報密度になったせいでしょう。
 そしてこれらは更に圧縮することもできます。
 「解釈違い」
 この4字こそがこの記事のテーマであり本来のタイトルでした。
 さて、このテーマを考え始めたきっかけは「『解釈違い』に対する不快感」という感情を2019年の私が初めて味わったことにあります。(チンタラ記事を書いているうちに年が明けたのです。おめでとうございます)
 それで、「解釈が違ってしまうのは何故か」そして「解釈違いはどうして不快感があるのだろう」という辺りを整理しようと思ったのです。

「解釈」が必要な理由

 そもそも、解釈なんかしなければ解釈違いは起きないのです。例えば数学の論文などは解釈を要しない形式で書かれますし、そうでないと評価されないでしょう。しかし人が表現物に触れた時に何ら解釈を行わずに済むことは滅多にありません。
 例えば彫刻作品の鑑賞でもその形状情報のみならず抽象的な意味を受け取ることは可能です。例えばある彫刻を鑑賞したある人は「この人物の大きく開かれた手は寛容を表している」と解釈し、そして別の人は「いや、救いを求めているように見える」と反論するかもしれません。3人目の誰かは「どちらにも見える」と評するかもしれません。
 この3人は彫刻の形状を「人間である」と無意識に理解しているようですが、その上でも解釈は分かれています。何故でしょうか。
 (この先の話は小説や漫画等言語表現を含む芸術作品を鑑賞する前提で進めたいのですが、内容的におそらく「記号論」や「意味論」や「認知言語学」と呼ばれる分野の話になりそうです。何かの再発明になっていれば上出来という程度のレベルの話です。とりあえずその辺りの調べ物は後にして、今は素人の持つ用語と知識と体験から何が見いだせるかを試してみます)
 解釈が生まれるまでのプロセスですが、私は大まかに三段階で
  ①創作:作者が頭の中で作品世界、人物、ストーリーを考える→創作物(意味)が与える印象の原本
  ②表現(作品化):言語化、イラスト化、音声化等……→一定の印象が得られる表現としての作品
  ③鑑賞→表現を受け取りながら(感覚的情報取得・形式的意味)、表現に文字情報のような記号(直接に内容を指し示さないもの)があればその意味を頭の中で展開し(解釈・解釈による意味)、印象を持つ(感情喚起・印象)
 という流れとして捉えました。

――「解釈」: 文章や作品や物事の意味を、受け手の視点で、理解したり説明したりすること(広辞苑)

 これは広辞苑の定義ですが、「受け手の視点で」とあります。これが多様な解釈を許容することを意味しているかは分かりませんが、少なくとも全ての単語を辞書で引いて文法から指示内容を分析するロボット読者を想定してはいないでしょう。その他の辞書の説明やWikipediaの記事(『解釈』単独で記事が存在している)を覗いたりもしましたが、それこそ解釈のブレを味わうばかりだったのでそれらから帰納的に定義を考え、「解釈」の意味は「創作物に触れて、その形式的意味に自身の知識と経験を加味し完全な意味を復元すること」としました。
 この「解釈」が必要な理由は明らかにプロセス②「表現」のせいです。
 表現という言葉はどうにも自由な響きを感じますが、実際のところ現実よりも抽象度を高くできることをそのように感じてしまうだけで、抱えられる意味の幅は脳内の妄想(印象)よりもずっと狭くなってしまいます。一体どうしてそんなことをするのでしょうか。

解釈と印象を生み出す遊び

 人は何故創作物に触れて解釈を行うのか。それは表現により意味内容が圧縮されているからです。では「表現」を使うのは何故か。それは今のところ人間間で表現せずに印象を与える手段がないからです。知っている人にだけ分かりやすく言えば攻殻機動隊のアレがないからです。
 しかし、その技術があったとしてもアーティストは使わないのかもしれません。
 芸術的創作物について解釈が必要なのは何故か。その結論は「それはデータじゃなくてアートだから。表現は作品の一部でありアートの必要条件だから。アートの存在は鑑賞者の解釈ありきだから」と言えるだろうと思います。
 ここでは芸術的創作及びその作品を「アート」としますが、アートにおいて作者側にしかならない作者というのは存在しないはずで、作者は少なくとも自分の作品を鑑賞します。作者は作品を作りながら、その作りかけのものを鑑賞しては頭の中の印象(イメージ)と、自分の作品を鑑賞して得られる印象とが近いかどうかを評価し修正します。そして評価・修正を何度も繰り返し、その差異の小ささに満足し、あるいは想定を超えて良い印象を得た瞬間にそれは完成品と呼ばれることとなります。
 つまり作品は第一鑑賞者である作者の満足をもって「作者の」作品として完成します。逆に言えば作者が不満でも誰かの満足するものかもしれませんし、逆もあり得ます。これが後述する作品鑑賞の怖い部分です。しかし問題は、アーティストが目的とするのは「自分が頭の中に持つ意味や印象を鑑賞者の頭の中に複製すること」なのかという点です。
「自分の頭の中の考えを正しく伝えたい」というシーンは確かに多くあります。この記事もどちらかと言えばそうですが、そのような表現は随筆や論文と呼ばれ、「これなら正確に伝わる」と思えるまでいくらでも文字数を使って文章を書き、グラフや図を挿入し、それでも伝わらなかった時の為に質問対応用の連絡先を付け加えることもあるはずです。やっていることはまるで表現大好き人間のそれですが、著者は自分の考えが表現により他の何か(文章や絵など)に転換・代理・象徴されること自体に価値を見出しているわけではありません。むしろ表現に正しく意味を持たせて伝えないといけないことに苦労しているわけです。
 しかし、アートはこれとは真逆とさえ言えそうです。
 アートにおいては作者にとってある印象のために作られた表現(作品)が、それに初めて触れる他者が鑑賞したときも作者が感じたのと同じような印象を得るかもしれない(もちろん違うかもしれない)という可能性を遊びとしているのです。つまり、馬の形を伝えるために馬の彫刻を作ることはアートではありませんが、馬の彫刻に対して(彫刻は持たないはずの)馬の性格などをその形に込めて表現し、作者が「この作品を見た人もきっとこの馬が優しい馬だと感じるだろう」と期待すれば、それはアートになるわけです。
 究極的には、作品自体が何の意味も持たなくてもおそらくそれはアートとして成立します。前衛的な音楽のように、感じてみて、言葉にならない思いを抱く他ないような芸術は多々あります(そこに全く意味が含まれないとは言い切れませんが)。ですが、そういった意味情報を持たない芸術というのは少数派だと思います。映画、ドラマ、小説、漫画、私たちに馴染み深い芸術作品の多くは直接的に印象を与えるというよりも、主としては感動の追体験を起こさせる構成になっています。ある世界、ある人物群、ある状況とその変化、それらを脳裏に再現するうち、現実世界で感じられるような感動を架空に喚起する仕組みです。なので、作品からどんな(人物・歴史・環境を含めた)世界を読み取るのか、つまり解釈は例えば音楽で音を聞き取ることと同じくらい基礎的な部分と言えそうです。

そら解釈も合いませんわ……

 では解釈の齟齬(解釈違い)はどこから生まれるのでしょうか。
 日本には昔ながらの表現方法でたった17音(正確には17モーラ)で文を作る俳句や川柳というのがあります。「昔は紙が貴重だったから長々とは書けなかった」とかそういう理由も無くはないのかもしれませんが、紙やコンピューターの普及している現代でもそれらの表現方法は楽しまれています。
 短い文章は長い文章よりも込められる意味の量が減ってしまいます。しかし、文章の長さ、描写の密度はそれ自体が作品の印象に繋がってしまうので「自由」にはできません。言葉少なに書けば曖昧に伝わるのは当然ですが、それでもそれがアートであるのならば「解釈」によって復元される意味量は必ずしも減らないというのが面白いところです。
 松尾芭蕉の有名な作品に「古池や蛙飛び込む水の音」という俳句があります。これ以上説明しようがないほどに、この俳句の意味はたったこれだけです。
 小さな子どもが学校なんかでこの俳句を知った時、どんな反応をするでしょうか。意味は分かるけど意図が分からないという反応になりそうです。が、それは大人も同じかもしれません。「コンクリを素手で叩いた時の音」と何が違うのでしょう。「ポチャン」と「ペチン」の違い……。これは文字で表された形式的意味を別のものにすり替えて揶揄しただけで、実際この句を鑑賞した人は「これがアートであるなら直接的に音を表したのではないはずだ」と考えて踏み込んだ解釈を開始するはずです。その過程の例として、私がこの句の解釈を行いながら思い浮かんだことを列挙してみます。

  • 「ポチャン」程度の音が聞こえるということは周りは静かだったはずだ。
  • ひとけがなく物寂しい中、小さな蛙の水音はその自然の営みに囲まれた状況に思いを馳せるきっかけとなったのだろう。
  • 池の古さを実際に知るのは難しいので、ただ手入れを受けていないようすが寂れて見えたことを老廃や自然の底知れなさのメタファーとしているのだろう。
  • 音がする前に蛙を認識していたとは思えないので音から蛙を想像しただけで、水音に期待したものが生きた蛙であったとも言えるはずだ。木の実が落ちた音ではつまらない。
  • 芭蕉ほどの人がわざわざ句として残したのだからその情景はよほど心動かされるものだったのだろう。
  • 本当は芭蕉の名前を名前を借りて素人作の適当な句を有名にしてみただけなんじゃないのか?

 ここに列挙した推測はこの句の形式的意味の隙間に私自身の知識や経験を当てはめてこそ生まれたものです。あまり静かだと物寂しいというような体験もそうですし、蛙の飛び込む水音が「ポチャン」だろうと思ったのもそうです。あるいは知識としては、これが有名な俳人松尾芭蕉の句であること、作られたのが400年ほど前の日本であること、そのような情報も織り込んでいます。
 私の最終的な解釈としては「音のない自然の広がる中、芭蕉がその静けさに心細く思っていたところ小さな水音が聞こえて生命の存在を嬉しく感じるとともに、芭蕉はその情景を老いながら生きる自身にも新しく感動が与えられることと重ねあわせた」となりました。その上で印象としては「有名俳人がこの句を大切にし今に伝わるという事実があるから深読みもするし情緒も感じるけど、句自体は平凡も平凡だな」程度のものです。句自体の意味の少なさゆえに高次元な推測まで巻き込むものとなりました。
 私自身は以上のような解釈を行いましたが、「古池って誰?」とリアクションを返すような人が読んだらまた違う解釈をし、違う印象を得るはずです。
 松尾芭蕉の死から325年(調べました)、現代までに多くの解釈が生まれていますが彼がもし生きていたらそれらをどう感じるでしょうか。ある解釈に対しては不愉快かもしれませんし、または愉快かもしれません。しかし間違いなく言えるのはたった17モーラで表された日本語では解釈が鑑賞者それぞれで違ってしまうのは到底仕方のないことで、そこに受ける印象もまた然りということです。
 まるで作品の方を責めるような言い方になってしまいましたが、そうではありません。同じ作品を鑑賞して違う解釈を生むならば、「違い」を発生させたのは作品の方ではないと言えるのです。形式的意味以上の解釈について違いを生むのは鑑賞者がその隙間を埋めるために使う知識や経験の違いなのです。
 最初に解釈とは「創作物に触れて、その形式的意味に自身の知識と経験を加味し完全な意味を復元すること」としましたが、知識や経験の違いに加えてこの「完全な意味」というのも鑑賞者からすれば無限定であり異なってしまうという問題があります。例の句にしても「蛙が古池に飛び込んだ時の水の音」という読み取りでこれこそ完全な意味だと感じる人もいれば、先の私の解釈のようにその場所の情景や作者の心境まで含めてその完全な意味だとすることもできるのです。
 解釈には作品の形式的解釈はもちろんのこと、形式的意味を状況証拠のように扱った経験に基づく推測(認知的な意味)、さらにそれでも不確定な部分について「より感動できる作品」への積極的補正、付加的情報を考えた場合に作品はどのように変化するか(もし二匹目の蛙が飛び込んだら)を理解しようとする回帰分析的解釈(関数的解釈)など様々な踏み込み方があり、そのどれを「解釈」と呼ぶことも「鑑賞者が完全な意味だと思うまで」として考えれば正しいということになります。
 このようにまとめると、なんとなく抽象地獄の夢から覚めるような心地がします。現実のSNSで見かけるようなやり取りに随分近づいた気がするからです。
 「作者はこの表現をこういう意図のもとで描いたはずだ」「いや作者とてそこまでは考えていないだろう」「そもそもその表現をそういう意図だと感じるのは頭がどうかしている」
 ああ、ほっこりするような現実感。解釈違いの具体的な姿。解釈違いは「君とは感じ方が違うね!」「そうだね!」で済むこともあれば、時に人死の出るような争いになることもあります。正確に伝わらないことを許容しているはずのアートの解釈で何故争うようなことになってしまうのか。やはり隣の人間と解釈が違えば「不快だ」と感じることが争いの第一歩となっているでしょう。
 では何故解釈違いは不快なのか。それは当然の疑問であり、冒頭に書いた通り、私が解釈の仕組みを考えようとした動機でもあります。

アートは常識を期待し、解釈の一致は社会性となる

 振り返りになりますが、アートは「作者の鑑賞結果あるいは作者が予想する鑑賞結果と鑑賞者の鑑賞結果が一致することを期待する表現のうち直接的でないもの」だと私は定義しました。ではアーティストは何をもってその一致を期待するのかと言えば、解釈のための知識や経験を共有している人がいるはずだという期待です。このことをもう少しアホっぽく言い換えれば「自分と同じ常識を持っている人には楽しんでもらえるはずだ」という期待になります。
 そういう結論です。作者が見知らぬ鑑賞者に同じ鑑賞を期待するのと同じように、その作品を「楽しんだ」、つまり「作者の期待するように鑑賞した(できた)」という自負を持った人は、他の人がその作品を「楽しんだ」と表明したときに同じ常識を共有していることを期待してしまうのです。そしてこの期待と常識への推定はともに解釈したものが多ければ多いほど強く働きます。俳句ひとつの解釈なら違いを許容できても長編小説の解釈が違ったら「一体貴様はどんな頭をしているんだ?」と言いたくなったりするわけです。そして解釈が異なると気付いた時、「相手と自分は作品の外側(解釈に用いた知識)について同じものを共有していない」という認識に至り、もはや作品に関係なくその人間自身の常識や思考プロセス自体の違いに恐怖を感じてしまいます。さらに「同じ作品を楽しめる人間のはずなのに」という直前までの仲間意識が落差を大きくしてしまいます。
 つまり、解釈違いの不快感は「違う解釈をした人間の得体のしれなさに対する恐怖」と表すのが最も近いと考えます。ただ、解釈が違うから常識の何もかもが違うかと言えばそうでもなく、相手が突然殴りかかってくるかもしれないとまでは恐れることも(多分、大抵の場合は)しませんし、現実的にはSNS上のやり取りではせいぜい悪口が届くくらいでしょう。そうなると「怖いけど、恐れる被害もたかが知れている。というかほとんど無害だろうと理性では分かっている」という奇妙な心境になってしまいます。このよく分からない心境こそ、解釈違いを恐怖と呼ばず不快感と曖昧にしてしまう原因なのでしょう。やっと整理できました。めでたしめでたし。
 さて、これで解釈違いの不快感はおよそ説明はつけたつもりなのですが、実際に解釈違いという言葉が使われるシーンでは単に作品鑑賞後に感想を言い合って解釈違いが発覚し揉める、というようなことはそれほど多くありません。もしそれで解釈違いが発覚しても「なるほど、こいつの頭は少し変なんだな」というように自分は正しくて相手はおかしいという意識でむしろ寛容な態度を取ることも簡単です。私が長い間、解釈違いというもので揉める場に出くわさなかったのも私自身が原作を鑑賞するだけ、もしくは鑑賞して少しの無難な感想を言うだけ、そして周りもそんな人達ばかりという境遇に生きていたためだと思います。
 しかし、これがそうも思っていられなったのは多くの二次創作に触れ、自分でも二次創作をしてみるようになった頃からでした。そして巷で実際に揉めるのも多くは二次創作がかかわる場合です。(ここでは二次創作は鑑賞者が自らの解釈をもとに新たなアートとして創作するものを指します)
 二次創作が不快感を大きくする理由の一つは、二次創作と言えどもその作者は自らの解釈が他人と共有できると期待して創作を行うということです。こうなると「お前はあの原作に変な解釈をするにとどまらずその解釈に理解者まで求めているのか?」という主観的厚かましさへの不快感が生まれます。
 もう一つはその解釈での二次創作が他人に受け入れられることによる常識共有集団の分裂です。これは怖い話です。人間の大多数は社会性という本能を持って生きています。暮らしの中で出会う他個体に恐怖を持たず協力しあいながら生きていけるように、自らを社会に合わせ、他個体が社会に合わせているかどうか(社会意識に協力的な仲間かどうか)を評価しながら暮らしているのです。
 直接会って話をしないような、ある作品の鑑賞者の集団にとって社会性を確認できる要素は非常に狭く限られます。その中でも重要な共通点であるはずの解釈結果が不一致となれば不信感を大きく持つこともやむを得ないことでしょう。そして解釈それぞれにある程度の支持者がいるとなればムラが分裂してしまいます。
 インターネット上ではムラの完全な分裂を解釈違い抗争の一つの解決としています。そうできるだけの場所の広さと人と人の繋がり方の多様性がイイトコドリを実現していると言えるでしょう。
 自分と常識を共有し仲間意識を持てる人たち、そして解釈の合わないヤベー奴ら、それらの割合が半々だったら果たして自分の側が正しいと信じられるでしょうか。お互いを尊重する在り方はいつでも可能でしょうか。袂を分かつこととなったとき、恐怖の減少と引き換えに増す孤独感と折り合いは付けられるでしょうか。
 現実世界という原作に対して解釈違いを起こした人たちがそれぞれに別々の二次創作(世界)を作ろうとして……。長くなりすぎる上、本旨から外れるので考えませんが怖い話です。
 考えれば考えるほどに新しいテーマがいくつも出てきてしまいますが、解釈違いの理解としてはここで話を終えようと思います。
 あらゆる場所で起こる解釈違いは人間が個を持つ限り防ぎようのないことです。諦めましょう。

この説明でスッキリしましたか?

 私への問いです。ここに書くのは上記に対する読書感想文みたいなものです。
 正直に言えばあまりスッキリはしませんでした。今後も解釈違いへは不快感を発生させてしまうだろうと予測しています。
 解釈違い自体についても、作者は正解を発表することができるのです。他人と解釈が合わない社会的恐怖も不快感の一部ですが、自分の解釈は正しくないのではないかという過ちへの恐怖もあります。しかし今後も作者がその解釈の適否について意見表明なんてしそうにない、深読みしすぎた解釈についてはその解釈の支持者あるいはただ一人で「これが正解だ」と信じ続けるしかないことになります。
 解釈違いへの一つの解決は正解の解釈が示されることですが、これは作品のアート性を犠牲にすることであり、正解が発表されると分かっているならそれほど頑張って読み解きもしないという立場を取ることもできます。しかし、作品表現が不確定なものとして残した部分が「鑑賞者の解釈に任せたい(アート)」なのか「作品の未完成な部分で今後発表されるもの」なのかを鑑賞者側から読み解くことができないという問題があります。
 少し拡張してまとめると、作品中の部分的な表現の不存在についてそれは「不存在の意味」として表されているのか「意味の不存在(解釈への期待)」として表されているのか、それとも作品は未完成なのか(完成品と宣言されたものが後の発表でその時点では未完成だったことになる可能性を含む)、これらについて説明を付加することができないというのはアートという遊びの欠点だと言えるはずです。(この欠点はアートのみの欠点にあらず表現物全般に起こりうると言えそうですが)
 以上をもって、前項以前の本文について「アートは解釈違いを引き起こす形をしているからアートを鑑賞する以上は解釈違いを覚悟しろ」「解釈違いを解決すると失うものがあるぞ」「解釈違いへの不快感は社会性の副作用だから諦めろ」の3つを解釈として得ました。私は正解を知っているので発表しますが、この解釈は作者のものと一致します。

解釈違いの理解に必要な概念多すぎ!

 後書きです。
 この記事を書くにあたってはなるべく一般的で簡易な言葉を(自分の知っていて理解できる程度の言葉を)使うようにしましたが、その単語についても一通りはググりました。(法学の「悪意」や金融分野での「現金」など、一般的単語が専門用語と意味がずれていることがよくあるのです)。その過程で、解釈違いの理解のために役立ちそうな学問が多くありそうなことに気付きました。表現や解釈については言語学の中の統語論・意味論・語用論・記号論・哲学の中の解釈学、解釈違いから生まれる感情については心理学や医学の概念として社会性が議論されることを知りました。
 現時点ではそれら学問の勉強は何一つしていないのですが、解釈違いという身近な問題と結びついたことで理解しておきたいという願望は生まれましたし、何も知らないおかげで自分なりに学問のような何かを作る遊びができたのだとも思います。人が何故本を読めと言うのか、という問題も今なら「表現解釈は社会性獲得に不可欠だから」と答えられます。こういうことを書くと後で勉強してから全てを消したくなるものですが、アホな自分の記録として残しておきます。
 この記事を書き始め、そしてこの記事に書くべきことを理解するまで、私はたとえばアートと言えば「自由と愛と平和のもとに自然発生する人間の本能的営み」とでも思っていました。この表現自体、アホの私が「なんとなくそれっぽいもの」として生み出したものです。アホの私はそれさえもアートだと言いそうなほどにアホでしたが、どうやらそれは間違っていそうだと思える程度に理解は進みました。アホが生み出す何も考えない表現はアートでも論文でもなく「解釈は可能だけど意味や印象を代理していない表現物」なのです。
 私はアホだったので自分がなんとなくで作るポエムのような文(解釈は可能だけど意味や印象を代理していない表現物)が例えば「壁一面を赤いペンキで塗っただけ」のような難解なアートを同じだと思っていました。アートだと主張してしまえば他人からは区別はされなくなりますが、それは恥ずかしいことですね。アーティストがアートを理解しているのなら、なんとなくで作ったように見える作品でも期待される解釈があるのだろうと認識を改めました。
 知識が増えて考え方が変わって、過去の自分が恥ずかしい自分になるのが苦しいです。
 記事本文はここまで。

消すにはもったいなかった

 ※構成上外したものの、内容的には矛盾しないメモをとりあえず。
 前項では表現を意味の圧縮と呼んだが、この用語はコンピューターによるデータの圧縮をイメージしている。圧縮には可逆圧縮不可逆圧縮があり、この例えで言えば「表現」は不可逆圧縮。その理由は完全に同じ辞書を共有してはいないこと(個人間のシニフィアンシニフィエ対応の不一致)と意味の量子化に伴う劣化。
 コンピューターならデータのコピーは容易。コンピューターが扱うデータは意味と表現が一致している情報記述形式であるために記録をそのまま表現として使い、受け取った表現をそのまま記録に移せるから。人間がコンピューターの真似をできないのは脳内の情報記録状態がどのように保存されているか未だ解明されていないことが原因。ある人間の思考や感情を別の人間に移すとして移動先の脳の過去の記憶を損傷することなく再現することができるのかという問題もありそう。
 馬の形を彫刻や絵で表現することは視覚で得た情報の再現であり具象的表現だが悲しみを「悲しみ」と表現することは具象的ではない。その場合それを解釈する人間の辞書が対応する「悲しみ」の意味が自らと同じものであることを期待する。ただし悲しみを悲しみと表現するのは限りなく直接的。
 語彙が意味に対して全射である言語が開発されたとしてその言語を使う人間同士のシニフィエが一致していることを確認することは困難。

修正

 2020/02/28
 記事を書く過程で記号学に興味を持ったため後日図書館で借りた3冊の本とオンラインのテキストにざっと目を通し、記号学については概要に触れた程度ながら、いくつかの観点に整理がついたため内容を修正。ある表現の字義的意味には一通りの字義的説明が可能であるとしても人間が脳内では意味を印象と結びつけて体系を作っているために感覚的な印象(イメージスキーマとの対応)としての「理解」というものは個人相互に一致しないとの考え。(以下は内容として変更した箇所のみ)
 ・解釈が必要な理由6段落目「創作物(意味)の原本」→「創作物(意味)が与える印象の原本」
 ・7段落目「作者の脳内創作物を表現媒体に圧縮」→「一定の印象が得られる表現としての作品」
 ・7段落目「(形式的理解・形式的意味)」→「(感覚的情報取得)」  ・7段落目「作者の「表現しようとしたもの」を頭に再現し(ここが解釈・解釈による意味)」→
 ・解釈と印象を生み出す遊び1段落目「意味を伝える」→「印象を与える」
 ・3段落目「それは論文ではなくて」→「それはデータではなくて」
 ・8段落目「アートにおいては意味や印象を直接的に表したものではない表現(作品)が」→「アートにおいては作者にとってある印象のために作られた表現が」、同文「意味や印象を与える」→「印象を得る」
 ・9段落目以降削除。新規記述。  ・そら解釈も合いませんわ……1段落目1文目削除。
 ・3段落目新規記述。

おまけ

 蛇足も蛇足、何の意図もありません。途中息抜きに書いていた関西弁松尾芭蕉と冷静沈着な弟子曽良くんの漫才です。ぜひ関西弁の音を感じるように読んでください。
 どこか他所の作品の影響を受けてはいますが、二次創作ではありません。キャラクターの著作権は認められないそうなので。(これも後でちゃんと調べておきます)

  『古池や蛙飛びこむ水の音』

芭蕉「ごめんやす。曽良くん、久しぶりやな」
曽良「お久しぶりです。長旅お疲れ様でした」
芭蕉「いやあ、ほんま大変やったで。大変っちゅうか、めっちゃ長う感じたわ。途中からは一人やったし、山越えやし、景色は代わり映えせえへんし」
曽良「ひたすら山道ですもんね、さぞ心細かったでしょう」
芭蕉「それ! ほんまそれな! 途中いっぺん泣いたろかおもたもん」
曽良「泣くほどとも思いませんが……」
芭蕉「やかましいわ。いや、ほんでな、山道やんか? 人おらんやん? いや、あの山、人どころか虫もおらへんねん。 山ん中、シーンっとしとるねん。風吹かんかったら何の音もせえへん。足元で砂がジャリジャリいうだけで」
曽良「知ってますよ。同じところ通ったので」
芭蕉「まあ知ってるわな。そらな、静かすぎるから言うて熊やら猿やら出てきて賑やかにしてほしいわけちゃうで? 熊も猿もおるような気配せえへんからそこは安心やったんやけど、静か過ぎても天狗でも出てくるような気ぃしてくるやんか?」
曽良「出ませんよ。天狗というのは想像上の生き物で……」
芭蕉「それは分かってるわ! 要するに不気味や言うてんねん。そうそうほんでな、『怖いなぁ怖いなぁ』言いながら歩いてたら」
曽良「それ未来の……」
芭蕉「訳わからんこと言うな。今ええとこやねん。ほんで『怖いなぁ怖いなぁ』とか、思てたけど言わんようにして歩いてたらやな」
曽良「はぁ」
芭蕉「ポチャン……。音が聞こえたねん。ポチャン……。って。一回だけやけど」
曽良「それ、蛙でも池に飛び込んだんじゃないですか?」
芭蕉「先言うなや! それ一番言うたらあかんやつや!」
曽良「えっ、すみません……」
芭蕉「いや、まあ、そうやねん。実際のところは分からへんけど、芭蕉もその時思てん。ああ、蛙がおったんやなって」
曽良芭蕉さんと同じ発想だったの凹むんですけど」
芭蕉「君なら言うと思ったわ。いやほんでも、アレ結構嬉しかってん。ほんま誰もなんもおれへんと思て歩いてたんや。正直、熊でもええからそろそろ誰か出てきてくれへんかな思てたところに蛙や」
曽良「蛙だと決めつけたんですね」
芭蕉「いや、蛙やねんてアレは絶対! 蛙、丁度ええ! 丁度ええねん、蛙。熊とか猿とか天狗やないにしても、例えば兎が出てきてみ? 滅茶苦茶ビビるで」
曽良「まぁ、微妙なところですけど、確かに兎なら驚くかもしれませんね」
芭蕉「せやろ!? ポチャン……ぐらいが丁度ええねんかな。アレでだいぶ元気もろてここまで降りてこられたわけや。ほんまあの蛙には癒やされたわ」
曽良「旅に癒やしは欠かせませんよね」
芭蕉「いやぁ、ほんまになあ。それに比べて曽良くん」
曽良「はい」
芭蕉「どこの弟子が師匠置いて先行くねん!」
曽良「あれは芭蕉さんが悪いんですよ」
芭蕉「どこがやねんな。仲良う一緒に歩いてたがな」
曽良芭蕉さん、山も序盤で足挫いたじゃないですか」
芭蕉「あれは事故やん。しゃーないやん」
曽良「そうですね。私もそう思ってさりげなくゆっくり歩いてたのに芭蕉さん後ろから言うじゃないですか」
芭蕉「何をやねんな」
曽良「『さっきのアレでやってもうたんかな……』『右足だけ歩幅稼がれへん……』『曽良くんは足挫いたりしてへん? 大丈夫?』とかなんとか」
芭蕉「独り言やん! ええやん、言わせてぇや! しかも最後のは曽良くんに無視されて独り言になったやつやん!」
曽良「覚えてるじゃないですか」
芭蕉「忘れられんわそんなん。怪我人につめたすぎるねん……」
曽良「私も芭蕉さんの独り言を下手に無視したのは悪かったと思ってます。芭蕉さん歩くの遅いからすぐ遅れるし、近づいたら近づいたで息遣いが暑苦しいし、イライラしてたんですよ。なので『なんか今日朝から調子悪いねんかな……』が五十回ほど聞こえたあたりで限界が来て置いていってしまいました」
芭蕉「そんな言うてへ……いや言うたかもしれんけど……何も言わんと置いていくんは寂しすぎるやん」
曽良「今度からはちゃんと『我慢の限界です』って言いますね」
芭蕉「いや置いていくなっちゅう話で……まあ、でもええわ。弟子が冷たい代わりに蛙が励ましてくれたからな。感動のあまりに一句詠んだぐらいや」
曽良「へぇ。どんなのですか?」
芭蕉「『古池や蛙飛び込む水の音』。どや? なんか応援されてる感じするやろ?」
曽良「いえ、全然しません。でも風情があって良い句だと思いますよ」
芭蕉「素直やないな。蛙の飛び込んだ水音が『芭蕉さん頑張って!』言うてるみたいに聞こえたっちゅう句や」
曽良「そうは思えませんけど……。蛙の水音は本当はこう言いたかったんじゃないですか?」
芭蕉「なんて?」
曽良「はよ行けや!(蛙飛び込む水の音)」
芭蕉「もうええわ」

若者が創作をしにくいのは何故か

創作する大人たち

前に記事を書いたのは5月だったんですね。しばらく離れている間に夏になってしまいました。今はコミケが終わって2日、大型台風の気配を風に感じる真夏の夜です。
いつものようにTwitterを眺めているとこの時期だけユーザー名を変える人がちらほらと見かけられます。xxx@30日目南114kという具合のものです。これらはコミックマーケットのサークル参加者がその参加枠をフォロワーに伝えるための表記です。そんなタイムラインを見ていると、絵を描いてPixivに上げているような人や、普段は声優イベントに参加するような人、海外に住んでいる人、色々な人がコミケに出ていることが分かります。
私は残念ながらコミケには参加したことがないのですが、コミケに出る人とオフ会で会うことは何度かありました。初めてそういう人たちに会ったときのことを今も覚えています。
第一印象は「こんなおじさんが漫画や小説作って発表しているのか」ということでした。おじさんと一言に言えば幅広い年齢になりますが、とにかく高校生や大学生に見えるようないわゆる若者でないことは確かでした。当時まだ辛うじて若者だった私にとって随分と年上の、見たところサラリーマン風の人がそんなに大きな創作意欲を持って活動していることが意外でした。
コミケ参加者には中年の方が多いのです。コミックマーケット準備会の資料等を見ても2011年時点のサークル参加者の平均年齢は31歳で、高齢化傾向にあると書かれています。参加者の年齢が高い理由を普通に考えれば「金」でしょう。私の知り合いにも絵を描く趣味の人間が何人かはいましたし、彼らも金さえあればコミケに出たりするのだろうなと簡単に想像していました。実際その中に、後にコミケに参加した者もいます。ですが、私はそういった若い趣味人の成れの果てとも呼ぶべきおじさんおばさんとは別の存在がずっと気になっていました。
それはアラサーあたりで創作活動を始めて、そこから半年や1年でコミケに参加するような人たちです。案外大勢います。私がTwitterでフォローしている人のうちおよそ2%ほどが当てはまっています。オタクばかりフォローしているので数値にバイアスはありましょうが、それでも「アラサーで創作活動を始める」という現象が私には不思議でなりませんでした。創作意欲というものは大人になるにつれて衰える一方で、元々そういった活動をしなかった人がコミケに出るとしたらそれは例外的なことなのだろうと考えていました。
他の記事をご覧になっていればお察しかもしれませんが、私はこの2ヶ月ほどでその誤解から解き放たれました。説明していこうと思います。

まさか自分が

前置きがしつこくなりましたが、私の話をします。
一つ前の記事でも書いたように、私は人から勧められて二次創作小説を書きました。きっかけはこのブログの最初の記事です。思うままの喚き散らしに屁理屈のベールを被せたようなあの気持ち悪い文章のことですが、あの記事を最初に読んでいただいた方から「そんなに文章が書けるなら二次創作小説でも書いてみれば」と提案されて、私は「やってみようかな」と思ったのです。
傍から見ればこれは実に普通な成り行きでしょうが、この「やってみようか」の心情が湧いてきた時、私は実に自分が大人になったのだと感じました。
下手くそな小説を書いて発表する、そんな事を若い頃の自分はとてもできなかったと思います。「発表する」を取り除いても書くだけ書くということさえしなかったかもしれません。「何かを作る」という意味では今までに全く経験がなかったわけではないのですが、絵で例えるならデッサン練習をしていた程度の話です。そんな私が小説などという創作らしい創作をすることになるとは予想もしませんでした。高校生あたりの自分が同様の誘いを受けていても「恥ずかしくてできそうにありません」をデンプンの膜で過剰包装して断りの言葉としていたと思います。
そんな自分が人に誘われるがまま小説を書いて、さらにそれ以降自主的に10作品10万字ほどの小説を機嫌よく書いてきました。今でも思います、「まさか自分が」と。この驚くほどの心境の変化はどこから来たのか、若いころは何がそんなに恥ずかしがったのか、少し記憶を遡って考えてみます。

創作する若者たち

私が中学生の頃、趣味で絵を描いている友人がいました。鉄道の写真を取りに行くのが趣味のクラスメイトもいました。大人になった彼らはもしかしたら今頃次のコミケの準備などしているのかもしれませんが、その彼らが大人になる前に(私の知らないところで)コミケに参加していた可能性は低いと思っています。
私の地元は東京から遠いのでコミケ参加の資金的ハードルは大きいものです。しかしそういった障害がなくとも、彼らは自分たちの創作物を公の場で発表はしなかったんじゃないかと思います。少なくとも当時の私にとって、創作物の発表なんて見せる方はもちろん、見せられる方になったって「恥ずかしいこと」でした。
絵を描いていた友人にその作品を見せて貰ったことがあります。その人は私が友人だったから少しその作品を覗かせてくれただけで大っぴらにはしていませんでした。「見せてくれ」とこちらが言って、「まあいいけど」と見せてくれたのです。見せて貰ったその絵はなんとも普通でした。せっかく見せてくれたのだからと薄っぺらく褒めはしたと思いますが、あまり大げさに褒めるわけにもいかない程度の出来で、こちらも少し恥ずかしくなったような気がします。そこに恥ずべきことが特段ないことも、それでも私が恥ずかしく感じたことも、大人の方には理解していただけるものと思います。
私の同期には何かを作っていてもそれを明かさなかった人が大勢いたはずです。そんな人の数が少なくないことは大人になって「昔話」をしたときによく分かります。漫画のキャラクターを真似て描くことなんかは誰しもが通る道で、レゴで大作を作っていたとか藪で木を拾ってはトーテムポールを彫っていたなんて変なやつもいます。皆こっそりとやっていたのです。
若い頃は言えなかった創作の趣味が大人になってから言えるようになる、そんな若者特有の恥ずかしさとは何なのか。ここからはビールを飲みながら書いてみようと思います。大人なので。

若者の創作活動とその公表

「若者」のひと括りでは広すぎてまとまりませんから、一度幼稚園あたりの記憶から思い出してみましょう。頭の整理に使っただけのようなものなので読み飛ばして構いません。
幼稚園の頃、全く確かでない記憶ですが、絵を描く時間が定期的にありました。動物だとか乗り物だとか家族だとか、大雑把なテーマはありつつも何を描いても褒められこそすれ怒られたりはしないものです。不道徳な絵や破廉恥な絵を描いたところで大人が苦い顔をするだけだったでしょう。他の子から何か指摘を受けることもあるかもしれませんが、少し揉めれば先生がなだめに来てくれるのだと思います。何かを描けば、何かを作ればそれだけで褒めてもらえます。平和です。
小学校、ご存知の通りここから平和でなくなります。イジメの話でも書きましたが、小学生あたりの子どもの世界は法治社会ではありませんし、かと言って大人の独裁も行き届いていません。利己的かつ全体主義的、そんな滅茶苦茶な人間関係を生きねばなりません。私はいつも大人しく宇宙や科学の本を読んでいました。悪目立ちしないようにと気を遣えば創作なんてしていられません。気の強い子はそれでも「どうだ」とばかりに創作物を見せびらかして、それが褒められたりあるいは批判されて喧嘩になったりしていました。平和ではないかもしれませんが、まだ健全です。学校の先生も保護者も、ある意味無責任にそんな光景を微笑ましく見守っていたことでしょう。
中学校、心が折れたり、折れずとも曲がったりします。何かを真似するのではなくオリジナルな創作を始めることも多い年頃だと思います。技術的には劣っていても情熱だけは注ぎ込んで自己満足を極めるのです。最高です。しかしその創作物は親には見せられません、友人にもあまり。そう、「恥ずかしい」のです。それに中学生ともなれば社会に生きることと遊びとを区別できるようになります。つまり相当の才能を持って、それで食っていけるほど優れた創作物を作れるのでなければまずは勉強に力を注ぐべきで、遊びに現を抜かすのは愚かだと考え始めます。私も嫌々勉強をしていました。受験の時期はずらせませんしスケジュールの問題からあまり遊んでいられないのはある程度仕方ありません。こっそりと創作活動をするようになるのはそんな事情もあってのことと思います。この状況は創作活動的にはあまり健全とは思えません。
高校、似た者同士が集う場です。現実の人間関係も落ち着きが出てきて、外ではオンラインの繋がりも育てつつ、創作自体もその作品の公開もしやすい環境が整ってきます。幼稚園や小学校低学年以来絵を描いていなかった人が改めてその趣味を始めるということも多いはずです。が、私の印象としては作品作りというよりは技術向上のための練習に時間を使う人が多いように思います。出来上がるのは練習の成果で、作者本人さえそれを作品と認識することが少ないのではないかと思います。活動は健全ですがどうも認識には歪なところがありそうです。
高卒、大学、おじさん枠です。思い思いの創作をする人はこの辺りから活動を活発にしているのだと思います。さて、大人になった彼らの心は一体何が変わったのでしょうか。

大人の強み、それは開き直れること

一言で言えばこれに尽きます。
「酒を飲みながら書いていたらダラダラと長くなってしまったなあ。まあいいか」
こんな事を言っていられるのが大人なのです。気楽なもんですよね。
さて、酒も抜けてきたのでここからはスッキリいきましょう。上のごちゃごちゃを参考に若い人にとっての創作への障害を考えてみました。なるべくシンプルに、それを感じる世代の若い順に大きく5つ挙げてみます。
 ①人と違うことをすると目立つ(イジメ等のリスク)
 ②作ったものを見せても褒めて貰えない
 ③人に見られる創作物は道徳性や美術性を求められる
 ④創作の内容と作者の人格を混同して評価される
 ⑤技術的に成長過程にあると思われて上達を期待される
①:これは大人になっても同じと言えば同じですね。ただ「気に入らなければ付き合わない」が大人になるにつれしやすくなるので問題は起きにくいでしょう。今はインターネットで気の許せる人にだけ公開することもできるのがありがたいです。
②:大人と子供ではここに意外なほど大きな差があります。人は技術や経験が多いほど褒め上手になれます。上手いところと下手なところが見抜ければ総合的には駄作でも褒めることができるようになるのです。子供やその分野に未熟な人はこれができません。子供の作品も、子供同士で見せ合うよりいっそのことプロにでも見せた方が良い感想を貰えると思いますがそんなことにはなかなか気付きませんし、そんな機会も少ないでしょう。
③:大人は無意識に子供に「善」や「純粋さ」を求めます。たとえ積極的に見せないにしても、隠れて作ったインモラルな作品を大人に見られては「ご指導」を頂戴することになりかねません。この期待に十分応えようとすれば幼児向け絵本のようなものしか作れなくなってきます。犯罪と違い、線引きがないことも相まって無制限に遠慮をもとめられるのです。何で叱られるか分からないとなれば隠すほかないのも当然です。
④:③と似たことかもしれませんが「子供の創作は自己表現だ」という思い込みがそうさせるのでしょう。もし真面目そうな大人がエグい作品を作ったとしても本人丸ごとで嫌われるか、「あの人にしては意外な作品だ」と思われるだけです。ですが子供の場合、作品の方はともかくとして、本人に何か悩みや問題があるんじゃないかと心配されます。実際にそういう可能性も高いでしょうから余計にです。これは逆に大人になってこそ「そういう心配」の方の気持ちも分かってしまい何とも難しいところです。
⑤:一番の原因はズバリこれです。これを言いたかった。ああ、長かった。つまり大人と子供の最も大きな違いは「周りが諦めてくれるかどうか」にあると感じたのです。上に書いた4つもそうです。目立っていようが下手だろうが爆発的芸術だろうが作者の人格を疑うようなものだろうが、何を作ってどんな出来でも「そんなものだ」と思ってもらえます。完成形だと思ってもらえるのです。作り上げた作品を未完成だと思われることのどんなにやるせないか。これは周りの大人がそう思うという以上に、本人さえも今が途上だと考えてしまうのがしんどいところです。
私はもう自分自身に向上を期待していません。技術や知識を得ることはあってもその間に体力が落ちたり意欲を無くしたり、失うものも多い下り坂の途中にいます。どんな作品ができあがってどう評価されるかよりも、作っている途中、出来上がった時、その時その時楽しいと感じるかを大切にしています。
私の作品を見て「ゴミだ」と思う人がいても私はちっとも困らないのです。ざまあ!これが大人だ!開き直りだ!

若者へ

若者にとっての創作の障害は簡単には取り除かれません。結局のところ、やるなら強い心でやるしかないのです。未来の自分に期待があるうちは技術向上だけに時間を使うのもアリでしょう。何もしないのもアリでしょう。どうせすぐにおじさんになります。いつか何か作品ができたらどこかに公開してください。案外楽しんでくれるおじさんがいるものです。その時までお互い元気で生きていましょう。ではまた。

「イジメに反対」とは言わない方がいい

はじめに

イジメの話題はTwitterでよく見かけます。
話題に上がるのはイジメを苦にした自殺者が出た場合がほとんどですが、そんな時のTwitterの様子を見ていると「イジメのない世界は程遠いな」と感じます。
Twitter世論はおよそイジメを否定するような調子で意見を並べています。毎度見かけるような意見を上げると
「イジメっ子にちゃんと罰を与えたほうがいい」
「イジメを受け続けるくらいなら学校なんか行かなくても良かったのに」
「イジメは犯罪なのに甘く見られている」
こんな具合です。
別に間違ったことを言っているとも思いませんが、イジメに反対の立場でコレを言うのならどうもおかしく思えます。
ここではイジメ自体を無くそうという話ではなく、大きいものから小さいものまでイジメを認識しようという話をするつもりです。
 

イジメは攻撃の主観的認識にすぎない

私はイジメられたこともイジメたこともあるつもりです。
イジメられたときは〇〇君は乱暴だから仲良くしないと決めていたらいつの間にかイジメられました。私がそう感じたからイジメです。逆にイジメる側は自分こそが正しいと思った行いをしても客観的にイジメと思われるわけです。行動のどこまでがイジメかは人によって違うのです。つまりこんな文章を書いてイジメ反対派が傷付いたら反対派へのイジメだと言われることもあるかもしれないということです。イジメは誰かが「それはイジメだ」と言えば成り立つのです。
日本では公的に人の行為の善悪の判断をしているのは裁判所だけです。人殺しと言えば世界中どこでも悪ですが、人殺しをした人にどれだけの罪があるのかは裁判を経なければ分かりません。正当防衛で無罪かもしれませんし、10年の懲役もあり得るわけです。
イジメのニュースなんかを見てこんなことを言う人がいます。
「A君はB君の悪口を常々言っていたらしい。B君はそれで人生が嫌になって死んだ。A君のせいでB君が死んだからA君も死ねばいい」
こんな意見を言う人はハムラビ個人裁判所の看板でも掲げるつもりでしょうか。この意見自体も他人から見ればA君へのイジメかもしれません。
攻撃行為が法に触れるものならば犯罪と呼ばれます。世の中のどんな行為が法に触れるかの判断は一般人には困難で、他人の行為を気安く犯罪だとは言えないものです。しかし「イジメ」という言葉はそれが主観に過ぎないために「悪いこと」という意味で都合よく使われてしまうのです。
 

学校のイジメ

言うまでもなく、イジメの代表と言えば学校で起こるものです。
靴を隠されるとか机に落書きされるとか悪口を言われるとか、そういうものです。学校のイジメと呼ばれるものには刑法に定められた犯罪が多く含まれるために絶対的な悪だと言われがちですし、学校も悪として処理しています。でも学校に蔓延るイジメは全く悪で、攻撃的意図のもとに行われるものしょうか。
例えば修学旅行のグループ決めで「ノリの悪い奴は入れない」と特定の人物をハブる行為はイジメと呼ばれるでしょう。しかし、ハブった方も攻撃意図はなく自分の修学旅行を台無しにされたくない一心かもしれません。そこへ先生が来て「入れてあげなさい」と強要して、世界は平和になるでしょうか。
理由がなければ人はワガママです。ワガママというのはつまり個人の利益を最大限追求するということです。個人の利益とは人生における幸福です。人は大人になると安定的幸福を手放さないように行動することを覚えますが、ワガママでなくなったりはしません。
子供は失うほどの資産も信用もありませんし、その時その瞬間に楽しいことが第一になるのです。ノリの悪い奴を仲間に入れないのは実に理にかなっています。「先生に怒られる」と「修学旅行台無し」を天秤にかけた上で意地でもノリ悪を仲間に入れないこともあるでしょう。
ではこんなことが何故起きるかと言えば子供の世界では道徳的信用はあまり通用しないからです。一人で優しくなっても誰からも評価されないのでは損ばかりです。それどころか純粋な幸福を追求する子供の世界では不気味に思われて信用どころではなくなります。
ところが人は大人になるにつれて「楽しい人と付き合う」よりも「危ない人を避ける」方が大事だという知恵をつけます。その段階になってようやく優しい振る舞いの価値が出てきます。攻撃的行動を取らないことが利益になって、ようやくイジメは減ります。
学校でイジメが多いのは子供の理性や道徳観が足りないからではなく、自分の利益を優先したら"イジメない理由が特にないから"なのです。
 

イジメの目的

イジメない理由がないからイジメるというのは少々無理があります。
人が人をイジメるのは子供がアリを踏んで遊ぶのとはわけが違います。本気で反撃されたらどれだけ体格差があろうとも怪我はするでしょう。ある程度リスクが有りながら何故イジメるのか。それは集団を維持する仕組みが不完全な分を補うためだと考えます。
集団を維持する仕組みと言えばルール、法ですが、日本でも国会が毎年開かれることから分かるようにルールは完全にはなりません。法を破れば犯罪になります。法が存在する理由の一つが刑罰を与えるためです。懲役、禁錮、罰金、それらは個人が執り行えば違法です。しかし、裁判所が定めた場合のみ悪人への応報としてそれらが合法に執行されるのです。では犯罪でない程度の被害を受けたらどうすればいいのか。イジメの出番です。
違法行為に違法な行為(懲役等)で罰が下されるように、ギリギリ合法にはギリギリ合法で応戦しようというわけです。「こいつが視界に入るだけで気分が悪い」→「こいつの気分も悪くさせてやる」、こんな調子です。どうせ公的には認められないので最初から裁判所気分で行えばいいのです。
例えば学校なら法律より先生がルールであり裁判所です。こんなに恐ろしいことはありませんが、実際そうなっています。イジメっ子には大抵不満があります。誰々はノリが悪い、不潔、行動が不気味、自分に無いものを持っている、そんな不満を学級裁判所に持ち込んで解決されるでしょうか。されないからこそイジメなのです。
イジメが起こった時、既に司法の信用はありません。司法の不備を自ら補うことがイジメの目的なのです。
 

イジメをしないこととは

イジメの始まりは「判断」です。物事の善悪を自分で決めることから始まります。
何かを悪と決めた時点でイジメが始まっているのです。たとえ人殺しを批判するにしても国家の司法とは別に(結論は同じでも)自分の判断を持った時点で私刑予備と言えるでしょう。その意見を外に発信すれば、それはもはや誰から言葉のイジメと言われても仕方ない行動となります。
こう考えると「イジメに反対」は一言で矛盾できるのです。何ともハッキリしないぼんやりとしたイメージの"イジメ"を自分の判断で"悪"として"排除しようとする"、この考え方は非常にイジメっ子寄りなのです。
本当にイジメを無くしたいときに言うべき言葉は「ダメ元でも警察行けば?」です。
善悪を判断するなとは言いませんし、私もしますが、これがイジメの一歩手前と思えないことは危険です。ぜひ用心しましょう。

二次創作小説を書いてみて

書いてみた

以前の記事でそのうち二次創作小説にも手を出したいと書いたのですが、実のところ怖気づいていました。私は久しく新しい領域に踏み出すことを怠っていて少し臆病になっていたのです。物事を始める時は誰でも須くできるもできぬも分からぬまま手を付ける他はないものですから、「やったことがない」は始めない理由にできません。ですが結局真っ直ぐ立ち向かうには度胸が足りず、このブログで少し文章を書いてそれが思いの外楽しめたこともあり、「小説に見える形で文章を作ってみよう」とやや遠回りに自分を勇気付け、書いてみました。
 

作業

本当はある程度計画を持って書き始めるのが良いのでしょうが、自分にとってはそれこそが挫折の第一歩と短い人生の中で学びました。軽い気持ちで始めるのがコツです。寝る前に少しずつ思いつくまま書きました。書いた小説は主人公の語りだったので「思いつくまま書く」というのが期せず適していたかもしれません。
最初は作文作法など知らぬ顔で書いていたのですが後から気になって多くの箇所を訂正してまわることになったら大変だと不安になり、一応小説の作法を調べました。ただ電子的に書いて電子的に表示することを目的としていたので「原稿用紙の使い方は紙媒体のためのもので、電子的な文章では最適な表記も変わるのではないか」との疑問が頭を離れませんでした。ところが調べるうちにその「作法」は単なる伝統的慣習ではなく、JISに規定された「日本語文書の組版方法(JISX4051)」に従ったもので、これは電子機器に文章が表示されることを意識して作成・更新されているものと知ったため、取り敢えずこれに従うことにしました。(ブログでは違和感があるので採用しません)
ブログの記事はまとまった内容にしたいと思うので書いては消しの連続ですが、小説は思いついたことが小説内の事実であり、後から捻じ曲げるのも卑怯に思えて(ブログは卑怯と認めます)、それに消し始めたら切りがないので(これが大きい)、あまり消さずに書き進めました。四晩使って一通りの話を書き、五日目は会話の隙間に文を継ぎ足し、六日目はやはり書きすぎたところを削るなどして仕上げました。
不思議だったのは小説書きが明らかに創作の行為でありながら考えを整理するだけのブログよりも「作っている」とは感じないことでした。水槽の中で魚が泳ぐのを観察し、見飽きたら餌を撒いてそこに魚が群がるのをまた観察する。そして観察をスケッチに残す。そんな作業に感じました。常々の妄想で創作は大方終わっていたらしいのです。知らぬ間に創作を終えていたお蔭で小説技術に苦戦するだけで済みました。これは二次創作故に楽なところだったと思います。
書き上がったものを通して読んで見ると小説のように見えましたし、話も筋が通っていると思えましたが小説の印象として誰か他の人が読んだ時にどう思うかだけが難しく、三周ほど読むうちに自分の文こそが自然に思えてきて、諦めました。これで完成です。
 

困難

先に書いたように、読んだ人に文体の違和感がないか、伝え損ねた情景がないか、表現で誤解を招かないか、そういう自分でない人が読んだ時のことを考えるのが一番難しく、結局できませんでした。
それから、PCで書いたものを確認する際に、表示するフォントがある程度綺麗なことと空白文字や改行等のシンボル表示ができることを求めてエディターを探しました。案外良いと思うのが見つからず、いくつか入れて試したうち癖の少なく欲しい機能の揃った「Mery」を使うことにしました。今のところ気に入っています。 何のエディターを使おうが同じことですが、書くうちに文のテンポや描写の量が適切かが分からなくなり、これも結局諦めました。
小説でも何でも読者の読むスピードは一定であって、その情報を拾う密度と感情がついていく頃合いは書く人の側で調整されるのだと気付きました。それができるのが多分上手い人の上手さなのだろうと思います。できそうにないほど難しいですね。
 

出来

まず、書き上げた時点で二万字もの量になったのが驚きでした。後に一割ほどは削ったのですが、それでも自分で読んで長く感じました。本屋に売られるような小説よりは短めですが、二次創作として投稿サイトに載せるには適当だったのではないかと思います。
内容には満足しています。ほとんど予定通りの進行になりましたし、無計画に散らかした要素を最後に拾えたのも上出来でした。
私に二次創作小説を勧めた人にも読んでもらいましたが、ある程度良く評価して頂けたような感想を頂戴しました。(私が逆の立場だったらどんな出来でも悪くは言わないことでしょう)
 

今後も続けるか

続けると思います。楽しかったので。
 

さいごに

小説書き終えた勢いでこの記事を書いたので文体が妙なことになりました。ですが記念にこのままにしておきます。では

アイドルの恋愛は許されない

はじめに

アイドルの恋愛発覚は現代の定番ニュースとなっています。
マスコミはどうも芸人や女優の熱愛発覚と同じ調子で下世話な噂話のネタとして報道しているようですが、「アイドルの恋愛発覚」は「有名人のプライベート暴露」とは一線を画するものです。仮に全く売れていない芸人が全く売れていない女優と付き合っていたとしたらニュースの価値はあまりありません。しかしアイドルであれば別です。アイドルファンはたとえ自分の知らないアイドルのニュースであっても不快感を覚えるでしょう。それはこれが業界全体の信頼を損ねる業務上の事件であって、プライベートという範疇に済まされないものだからです。
 

アイドルとは

ライブでステージに立ち、歌って踊って、握手会を開いて、アイドルはそれが仕事と思われていますが、それは「イベント」であってアイドルの本質的な仕事ではありません。ではアイドルは何をもって仕事としているのでしょうか。
ずばり言えばアイドルは「愛の乞食」なのです。
舞台の上で輝く様はそんな言葉と無縁に思わせるものかもしれませんが、本質的にアイドルは何かを提供して金銭と交換する仕事ではないのです。言おうとおもえばいくらでも良いようには言えるでしょうが、純粋に表現しようと思えば「乞食」が適切と考えます。
とは言え、アイドルの商売と言えばCDやライブグッズの販売収益が主であり、寄付ではなく売買で成立しています。私が考えるのはなぜ作曲も作詞もせず歌っただけのCDが売れて、何故プロダンサーや歌手より技術の劣るお遊戯ライブに人が来るのかという部分です。それはアイドルが愛されているからです。
自分にもし愛する子供がどこかでステージに立つことがあればどんな出来であれきっと観に行きますし、グッズがあればそれ自体の価値を気にせず応援の気持ちで買うでしょう。
では他人の子供だったら。自分に子供がいながら他人の子供を熱心に応援するとしたらそれは「キモい」と言われても仕方ないような気がします。ですが、実はその子に親がおらず、親の代わりに多くの人に見てもらいたくて舞台にいるとしたらどうでしょう。私なら目立つことはせずとも見届けたいと思います。
憐れみは愛の免罪符であり、そんな状況を商業的に利用するのがアイドルです。アイドルをするのにいかにも「人気者」な人ではいけません。仕草や容姿に憎らしさがなく、しかし特別に輝くものも持たない。自分に自信がない分を人懐っこく振る舞って他人に認めてもらおうとする。普通に生きていたらやや残念なくらいがアイドル向きなのです。しかしそんなやや残念人間が都合よくアイドルを目指してはくれません(例外有り)。多くは目立ちたがり屋が、目立ちたい一心でファンを求めて愛嬌を振りまくのです。TwitterInstagramで、動画やライブ配信で、ラジオやテレビで、人の目に触れるあらゆるところで「愛されたい人間」として振る舞うことがアイドルの仕事なのです。
イベントも宣伝の一部ですが、歌や踊りは人気になるために練習するものではありません。自分を応援してくれる人が「もし集まったら」、ファンのお蔭で充実していることを伝えつつ、その場で共に楽しんでもらえるようにする。そんな「もてなし」として練習するものなのです。
イベントでは最高に楽しそうな姿を見せます。でも終わったらまたいつも通りです。
「この子はまだまだ飢えている」、そう思わせ続けるのがアイドルの仕事です。

恋愛が発覚したらどうなるのか

およそ当然のことですが、恋愛が発覚すれば「愛に飢えている」などという印象は消し飛びます。
例えるなら1億円拾ったホームレスです。 ホームレスなら問題はありません。金が欲しくて金が手に入って、万々歳のハッピーエンドです。
ところがアイドルは「愛に飢えている」という体で人を集めつつも、その実目当ては金だから難しいのです。「愛が満たされた」とするなら乞食ごっこは辞めねばなりません。恋愛成就を速やかに自ら公表し引退するなら筋は通ります。ですがもし引退しないのなら「この上、何が欲しいんだ?」という話になります。アイドルだって金が欲しいのは誰でも分かっています。でもファンは紳士的な遊びとしてアイドルを信じ、愛の形として金を使うのです。ごっこ遊びに必要なのはルールではなく信用です。アイドルに恋愛が発覚するのはディズニーランドでミッキーマウスの首が取れるのと同じです。あってはなりません。

恋愛に腹を立てるファンはガチ恋なのか?

これは案外難しい問題です。
愛の乞食ごっこにちゃんと付き合うならば愛を差し出さねばなりません。金では駄目なのです。ミッキーマウスに「お疲れ様です」と言ってはいけないのと同じです。ですからアイドルを愛するのはむしろ健全な態度です。
愛は一方通行の贈り物です。渡したら交換で何か貰えるものでもありませんし、「この前渡したのを返してくれ」とも言えません。基本的には損しかしません。それでもファンは自己満足で愛を渡しっぱなしにします。だからこそアイドルを乞食と呼んだのです。
アイドルと付き合いたいと思う人をガチ恋と呼ぶのなら、その人はアイドル遊びにおけるファンではありません。ただの片思いの人です。恋愛が発覚したらその恋人へ嫉妬するはずです。職業を越えてその人格に恋愛しないことを期待するのはファンのあり方ではありません。 本当のファンが期待すべきことはアイドルがその在任中に誠実であることだけです。恋愛するなら引退する。もし恋愛を隠してアイドルを続けるならファンの全員が死ぬまで隠し通す。このどちらか以外を期待して非難するならばアイドルの捉え方を間違っているはずです。
アイドルをしている人を好きになってしまったら、自分をファンだと言うのは辞めましょう。本当に付き合うつもりでも誠実なアイドルはファンから相手を選びません。付き合いたいなら「アイドル」抜きで狙いましょう。そうでなければ諦めましょう。
ガチ恋」を純粋な恋愛と考えるなら「アイドル」においてアイドル本人にもファンにも無縁のものと結論します。
 

アイドルにはならない方がいい

某グループでは明確に恋愛禁止をルールとしています。
こんなルールは本来不要です。利益を追求すれば十分なインセンティブがあるからです。しかしルールを設定したことでアイドルは批判されやすくなりましたし、人権侵害ではないかと阿呆みたいな擁護も出てきました。
職業選択の自由がルールの拒否を保証しているので人権侵害ではありませんが、恋愛は必ずしも業務外の自由ではないのです。
アイドルファンの需要は若い年代に集中しています。本気で恋をしようと思わずとも愛を持って応援しやすいのでしょう。しかし若い年齢でアイドルになって恋愛をなるべく避けて過ごすことは文化的にも本能的にも生き方として最適には思えませんし、恋愛発覚で非難されるのも人生を通してみればおかしな話でしょう。自分の子供がアイドルになりたいと言い出したら上手く諦めてもらうつもりです。アイドルになるのが不幸だと思っているわけではありませんが、何も乞食から始めなくてもいいはずです。アイドルになって活躍できる人は多分恋愛に十分向いています。恋愛の価値と金銭を天秤にかけるのはどうかと思いますが、実際にそういう選択なのです。私は人がアイドルになることを勧めしません。

コミュ障たちはコミュ力を持たないのか

コミュ障発祥の地、SNS

「コミュ障」という言葉をよく聞くようになりました。10年前にはあまり聞かなかった言葉です。
コミュ障とはコミュニケーション障害のことですが、似たような言葉の「通信障害」の「障害」とは意味が異なり、人間の能力の不足を示す言葉として使われています。極端に言えば言語を学習できなかった知的障害者もコミュ障の人と言えるはずですが多くの場合は言語能力が十分にありながら他者との交流のためにそれを発揮できない人を指しているようです。
それ以前の似た言葉では「人見知り」「話し下手」「根暗」などがありますが、これらに加えて「コミュ障」の言葉が世に広まったのには、この言葉の面白い性質が関係していると考えています。それはこの言葉が自虐的に使われることが多いという傾向です。
「コミュ障すぎて話しかけられなかった」
「休みの間ずっと家にいて誰とも会わなかったからコミュ障が悪化してる」
そんな使われ方を多く見かけます。ではどこで使われているのか。私の知る中でもっともよく使わている場所はSNSです。SNSの普及と「コミュ障」という言葉の登場時期はかなり近いのです。
 

それはコミュ障なのか?

SNS以前にもチャットや掲示板等のオンラインのコミュニケーションの場はありましたが、「コミュ障」という言葉はあまり見かけませんでした。そもそもテーマを持ったその場限りの交流が多く、現実の自分自身の生活に細かく言及することは少なかったように思われます。
2010年代以降、スマホの普及とともにSNSは多くの人がオンラインの人格を持つ場となりました。完全匿名で毎日IDが変わる場所では好き勝手な言い逃げもできましたが、SNSでは一定の固定された人付き合いを持つことが一般的ですから失言はしていられません。長く付き合えば匿名であっても人格が言葉ににじみ出ますから自慢や強がりよりも自虐や愚痴の方が話題として差し障りのない内容と言えるでしょうが、文字を通したやり取りの中で「自分は体力がなくて」とか「不器用なもので」とような自虐をしても実際どうなのか分かりませんし、程度が分からないのでは他者も反応し辛いでしょう。そんな場で等しく晒されているのが「コミュ力」です。
コミュ力が本当にないのではSNSは上手く使えません。SNSもままならないのはコミュ障に違いないでしょうが、それではコミュ障を自称する場所も相手も非常に小さく限られます。それを思えば日頃から大勢と無難な付き合いができていながら「自分はコミュ障だ」と言うのは謙遜とさえ思えます。
しかし自称する人たちの多くは、「人と面と向かっては上手く話せない」という状態をコミュ障と捉えています。滑舌が悪い、声が小さい、言いたいことがすぐにまとまらない、適切な表情を作れない、人がいるだけで緊張する、そんな会話上での問題を「コミュ障」の一言にまとめて、逆に言えばそれらすべてをこなしつつ言葉の内容も十分なことを人は「コミュ力」と呼んでいるのです。それは妥当な表現でしょうか。私はそうは思いません。自称コミュ障の人がSNSでは数百もの人と活発に会話をしているのはもはや見慣れた光景です。人を笑わせるほどの話を書く、他人のネタにネタで返す、攻撃的な発言を受けても上手くいなす、すべきでない話をしない等、SNSでのコミュニケーションに十分な能力がありながら対面での会話は上手くできない人が大勢います。その人たちは本当にコミュ障なのでしょうか。
 

コミュ力の要素

弁護士、「ウェーイ」ばかり言う大学生グループ、カウンセラー、「徹子の部屋」の黒柳徹子、私は彼らにコミュ力があるとは一言に言えません。
ぼんやりとした総合的なコミュ力コミュ力とだけ表しながらコミュ障に掘り下げるのは難しいのでその目的ごとに能力を分解して勝手に定義しておこうと思います。
まず大きく2種類に分けようと思います。1つは人に伝える内容を考える「知的コミュ力」、もう1つはそれ以外の、物理的な伝達に関わる「身体的コミュ力」とします。
そして知的コミュ力を、「意味作文能力」、「社会的行動決定能力」、「意思理解能力」の3つに分けます。伝えたい内容を純粋に言葉に対応させる能力を意味作文能力、伝えた内容によって相手がどう思うかを考えてコミュニケーションの結果が適切となるように内容を調整し、または内容を伝えるかどうかも判断する能力を社会的行動決定能力、コミュニケーションの中で受け取った言葉から相手の考えを理解する能力を意思理解能力とします。
身体的コミュ力は分解すると声の大きさや聴力など、コミュ力の一部とは必ずしも言えないものが多く含まれるためにあえて分解しないでおきます。上に挙げた4つの例はそれぞれ、意味作文、社会的行動決定、意思理解、身体的能力には優れているでしょう。ですが他の能力が著しく低ければ「コミュ障」に分類されることもあるかもしれません。能力の過不足を知るためにも要素ごとの検討が必要なのです。
 

会話は速すぎる

文章を作るというのは同じ内容を伝えるなら話をするより簡単です。時間をかけられて、作り直しも可能だからです。私の文章も講義か演説でもするかのような調子ではありますが、「言い直した」部分は消しているので読まれる方にはバレません。文章を書くように時間をかければ満足なコミュニケーションを取れる人は本当はコミュ力があるはずです。そんなオンラインでは饒舌なコミュ障たちを会話の中でコミュ障にしているものは、「言葉を作る時間が足りない」「発声発語の困難さ」「怒らせたら殴られそうな距離感」といった物理的な側面の問題なのです。SNSに生まれた「コミュ障」という言葉は物理的障害を排除して直接的な情報伝達を可能にしたインターネット上においてやっと本来のコミュ力を発揮できた人たちが、話し下手を卑下しつつもオフライン世界の不自由さを揶揄したものだと思います。
令和を迎えた今日、「電話は時代遅れだ」と言う人がいます。確かに、その場で繋がらないと伝わらない、内容を残せない、特別な回線での通信が必要、時代遅れと言われる要因はいくつもありますが時代とともにメリットが無くなったわけではありません。電話のメリット、それは「速さ」です。口で話すより速くタイピングできる人はいますが、会話より速いメールのやり取りはできません。もし110番や119番がチャット受付だったらまどろっこしいと思いませんか?「会話」は原始的でありながら、人間の意思疎通では今も最速の通信なのです。
コミュ障のエピソードとしてこんなものが考えられます。
「人から急に質問されて『あー、えー』ばかり言ってたら『田中角栄か!』とつっこまれた」
作り話です。しかしこれが本当であっても別に恥ずべきことでもなく、むしろ当然のことでしょう。テキストで受けた質問だったら誰もが数秒は答えを考えます。即答できたら田中角栄より凄いというだけで、できなくても総理大臣程度なら目指せるわけです。 スローで高度なコミュニケーションが普及した今こそ、「会話は原始的だから簡単で、誰でもできて当たり前」という認識は正されるべきでしょう。会話は身体的コミュ力が試される難易度の高い意思疎通方法なのです。
 

コミュ力を発揮することの難しさ

前項では会話の難しさの大きなところはその速さだと言いましたが、それだけが会話の難しさではありません。
目の前にいる人と話す場合、「伝わるものが言葉だけではない」ことも知的コミュ力だけが高い人には足かせになります。
人は言葉の意味だけを純粋に受け取るのではなく、発信者の考えを推定しようとします。これをしないことは病気とさえされています。文字コミュニケーションでは句読点や感嘆符の使い方をそのヒントとできる程度ですが会話する距離の人間に対しては年齢、性別、体格、人種、服装、動き、表情、匂い、イントネーション等、多くのものを観察できます。「ピザはほとんど食べません」という言葉を文字で受け取った場合、好みでないか、単に食べる習慣がないのだろうと思う程度ですが、目の前に人がいれば様々な感想を持てます。ご老人だったら一般的なことですし、太っていたらダイエット中だと思うかもしれません。口に赤いものがついていてチーズの匂いがしていたら発言が疑わしいか冗談だと捉えるのも妥当でしょう。ただ、本当にたまにしか食べない人がその日はピザを食べたと知られながら「ピザはあまり食べない」なんて話をするとしたら文字だけで伝えるよりも説得力が落ちてしまいます。会話相手に嘘付きだと思われないようにするならば、しばらくピザの話題は封印するのが賢明なのです。
このように人と向かい合う会話で悪印象を与えたくなければ「どう思われるか」のシミュレーションを高い精度で行うか、悪くは思われないはずの話をする必要があります。多くの人が後者を選択します。つまり「無難な話題」こそが人付き合いに必要なものなのです。天気の話はその定番と言えるでしょう。日本では年間に何十万回も使われる話題があります。 「台風が来ているようですね」 これは人生の必須会話ですが、対応するために何か優れた言葉を用意する必要があるでしょうか。
「来ると言われて台風が直撃しても大抵はいつもより強めの雨風が来ただけという印象でしかありませんし、温帯低気圧とのボーダーを見直して災害と言えるものだけに注意を促して欲しいですね」
なんて答えは必要とされません。
「今はこんなに晴れているのに本当に来るんですかね。ははは」
この程度がおそらく正解なのです。
一概には言えませんが「共感」は人付き合いを良好にするものの定番です。共感ができているなら言葉の出番は少なくなります。一方が思いを言葉にして、共感したもう一方は「確かに」「それな」「おっしゃる通り」、そんなことを言っておけばいいのです。このやり取りには知的コミュ力の中でも「社会的行動決定能力」が求められます。「無駄に高度なことを言わない」のもコミュ力の一部なのです。また知的コミュ力があって適切な内容を考えられても身体的コミュ力の問題で「あ、あの今は晴れで、その、来られ、く、来るんですかね?ひひ」と、リズムの悪い返答をすれば無事「コミュ障」となるわけです。ああ、これがメールだったなら。
人はいつでもコミュ力を持ち歩いていますが、それはどこでも最高のパフォーマンスを出せるということではないのです。
 

コミュ障の改善は可能か

すべてを書く前に言葉の定義でも調べようかと「コミュ力」でGoogle検索してみました。暇な人は自分で検索してみて下さい。定義なんか出てきません。「コミュ力が高い人の特徴」なんてものが出てきます。そのページを訪れた人がそれを知ってどうするのかと言えば真似をして改善するつもりなのでしょう。「駅前の宝くじ売り場で高額当選者が出たから自分もそこで買おう」というような「真似」は馬鹿げていますが、コミュ力の特に知的コミュ力の部分ではルールによって改善可能な場合があるので真似も無駄ではありません。「否定的な返答を避ける」「冗談は冗談として扱う」「自分を晒しても他人には踏み込みすぎない」、たとえばこんなものです。これらを注意しながら言葉を作るのはできていなかった人にとって負担ですが、スローなコミュニケーションの中では確認して改善することもできるはずです。
では身体的コミュ力の改善は可能なのでしょうか。子供なら可能性は高いですが、そもそも未発達なものを大人の基準で評価するのはフェアではありません。大人はどうか。困難でしょう。なぜかと言えば大人になってから肉体能力を高めること自体大変な上に身体的コミュ力は一人では鍛えにくいという問題があるからです。鍛えるとすれば練習相手を探して様々な状況をシミュレーションして会話を行って慣れていくのでしょうが、本当にそんな練習は必要でしょうか。
昨今は声でのやり取りを必要とする状況が減ってきています。通販は電話からインターネットに、回転寿司の注文はインターホンからタッチパネルに、連絡網はメールやSNSで、クレーム対応もメールだけのところが増えました。プライベートな友人との語らいさえも飲み屋からSNSに移した人がいるでしょう。世の中から会話がなくなることはないはずですが、要求される身体的コミュ力は小さくなって行くことでしょう。普通自動車免許ならMT車を運転できますが、2019年の今、AT限定免許でも困っている人がほとんどいないように、「会話は下手ですが何か問題でも?」の時代は緩やかにやってくるはずです。しかし人と共に生きるのなら知的コミュ力は求められます。あまりに低いと法律に触れてしまうことも考えられます。人と会うのが苦手なら掲示板でもSNSでも孤独なブロクでも、どこでも良いので好きなだけ時間を使って考えと思いを文字で言葉にしてみましょう。高負荷トレーニングの筋トレのように実用の機会はなくとも育てる楽しみがあるはずです。そして散々時間をかけて少しの満足な言葉を書いて、「会話でコレは無理だ」と私と共に思いましょう。これが私の丸1日かかった文章です。
 

さいごに

ここまで約5600字ですが、内容がとっ散らかってますね。
もう少しまとめられたら後でまとめますが、一旦気が済んだので次へいきます。 では。