表現による意味の圧縮とその展開によって起こる解釈の齟齬

うわっ……

 このタイトルは早い話が「意味の圧縮」のサンプルです。この記事のテーマをぎゅっと27字に押し込んだわけです。
 自分で書いて自分で読んでも「うわっ」となるわけですが、それはやはり27字で説明するには濃すぎる情報密度になったせいでしょう。
 そしてこれらは更に圧縮することもできます。
 「解釈違い」
 この4字こそがこの記事のテーマであり本来のタイトルでした。
 さて、このテーマを考え始めたきっかけは「『解釈違い』に対する不快感」という感情を2019年の私が初めて味わったことにあります。(チンタラ記事を書いているうちに年が明けたのです。おめでとうございます)
 それで、「解釈が違ってしまうのは何故か」そして「解釈違いはどうして不快感があるのだろう」という辺りを整理しようと思ったのです。

「解釈」が必要な理由

 そもそも、解釈なんかしなければ解釈違いは起きないのです。例えば数学の論文などは解釈を要しない形式で書かれますし、そうでないと評価されないでしょう。しかし人が表現物に触れた時に何ら解釈を行わずに済むことは滅多にありません。
 例えば彫刻作品の鑑賞でもその形状情報のみならず抽象的な意味を受け取ることは可能です。例えばある彫刻を鑑賞したある人は「この人物の大きく開かれた手は寛容を表している」と解釈し、そして別の人は「いや、救いを求めているように見える」と反論するかもしれません。3人目の誰かは「どちらにも見える」と評するかもしれません。
 この3人は彫刻の形状を「人間である」と無意識に理解しているようですが、その上でも解釈は分かれています。何故でしょうか。
 (この先の話は小説や漫画等言語表現を含む芸術作品を鑑賞する前提で進めたいのですが、内容的におそらく「記号論」や「意味論」や「認知言語学」と呼ばれる分野の話になりそうです。何かの再発明になっていれば上出来という程度のレベルの話です。とりあえずその辺りの調べ物は後にして、今は素人の持つ用語と知識と体験から何が見いだせるかを試してみます)
 解釈が生まれるまでのプロセスですが、私は大まかに三段階で
  ①創作:作者が頭の中で作品世界、人物、ストーリーを考える→創作物(意味)が与える印象の原本
  ②表現(作品化):言語化、イラスト化、音声化等……→一定の印象が得られる表現としての作品
  ③鑑賞→表現を受け取りながら(感覚的情報取得・形式的意味)、表現に文字情報のような記号(直接に内容を指し示さないもの)があればその意味を頭の中で展開し(解釈・解釈による意味)、印象を持つ(感情喚起・印象)
 という流れとして捉えました。

――「解釈」: 文章や作品や物事の意味を、受け手の視点で、理解したり説明したりすること(広辞苑)

 これは広辞苑の定義ですが、「受け手の視点で」とあります。これが多様な解釈を許容することを意味しているかは分かりませんが、少なくとも全ての単語を辞書で引いて文法から指示内容を分析するロボット読者を想定してはいないでしょう。その他の辞書の説明やWikipediaの記事(『解釈』単独で記事が存在している)を覗いたりもしましたが、それこそ解釈のブレを味わうばかりだったのでそれらから帰納的に定義を考え、「解釈」の意味は「創作物に触れて、その形式的意味に自身の知識と経験を加味し完全な意味を復元すること」としました。
 この「解釈」が必要な理由は明らかにプロセス②「表現」のせいです。
 表現という言葉はどうにも自由な響きを感じますが、実際のところ現実よりも抽象度を高くできることをそのように感じてしまうだけで、抱えられる意味の幅は脳内の妄想(印象)よりもずっと狭くなってしまいます。一体どうしてそんなことをするのでしょうか。

解釈と印象を生み出す遊び

 人は何故創作物に触れて解釈を行うのか。それは表現により意味内容が圧縮されているからです。では「表現」を使うのは何故か。それは今のところ人間間で表現せずに印象を与える手段がないからです。知っている人にだけ分かりやすく言えば攻殻機動隊のアレがないからです。
 しかし、その技術があったとしてもアーティストは使わないのかもしれません。
 芸術的創作物について解釈が必要なのは何故か。その結論は「それはデータじゃなくてアートだから。表現は作品の一部でありアートの必要条件だから。アートの存在は鑑賞者の解釈ありきだから」と言えるだろうと思います。
 ここでは芸術的創作及びその作品を「アート」としますが、アートにおいて作者側にしかならない作者というのは存在しないはずで、作者は少なくとも自分の作品を鑑賞します。作者は作品を作りながら、その作りかけのものを鑑賞しては頭の中の印象(イメージ)と、自分の作品を鑑賞して得られる印象とが近いかどうかを評価し修正します。そして評価・修正を何度も繰り返し、その差異の小ささに満足し、あるいは想定を超えて良い印象を得た瞬間にそれは完成品と呼ばれることとなります。
 つまり作品は第一鑑賞者である作者の満足をもって「作者の」作品として完成します。逆に言えば作者が不満でも誰かの満足するものかもしれませんし、逆もあり得ます。これが後述する作品鑑賞の怖い部分です。しかし問題は、アーティストが目的とするのは「自分が頭の中に持つ意味や印象を鑑賞者の頭の中に複製すること」なのかという点です。
「自分の頭の中の考えを正しく伝えたい」というシーンは確かに多くあります。この記事もどちらかと言えばそうですが、そのような表現は随筆や論文と呼ばれ、「これなら正確に伝わる」と思えるまでいくらでも文字数を使って文章を書き、グラフや図を挿入し、それでも伝わらなかった時の為に質問対応用の連絡先を付け加えることもあるはずです。やっていることはまるで表現大好き人間のそれですが、著者は自分の考えが表現により他の何か(文章や絵など)に転換・代理・象徴されること自体に価値を見出しているわけではありません。むしろ表現に正しく意味を持たせて伝えないといけないことに苦労しているわけです。
 しかし、アートはこれとは真逆とさえ言えそうです。
 アートにおいては作者にとってある印象のために作られた表現(作品)が、それに初めて触れる他者が鑑賞したときも作者が感じたのと同じような印象を得るかもしれない(もちろん違うかもしれない)という可能性を遊びとしているのです。つまり、馬の形を伝えるために馬の彫刻を作ることはアートではありませんが、馬の彫刻に対して(彫刻は持たないはずの)馬の性格などをその形に込めて表現し、作者が「この作品を見た人もきっとこの馬が優しい馬だと感じるだろう」と期待すれば、それはアートになるわけです。
 究極的には、作品自体が何の意味も持たなくてもおそらくそれはアートとして成立します。前衛的な音楽のように、感じてみて、言葉にならない思いを抱く他ないような芸術は多々あります(そこに全く意味が含まれないとは言い切れませんが)。ですが、そういった意味情報を持たない芸術というのは少数派だと思います。映画、ドラマ、小説、漫画、私たちに馴染み深い芸術作品の多くは直接的に印象を与えるというよりも、主としては感動の追体験を起こさせる構成になっています。ある世界、ある人物群、ある状況とその変化、それらを脳裏に再現するうち、現実世界で感じられるような感動を架空に喚起する仕組みです。なので、作品からどんな(人物・歴史・環境を含めた)世界を読み取るのか、つまり解釈は例えば音楽で音を聞き取ることと同じくらい基礎的な部分と言えそうです。

そら解釈も合いませんわ……

 では解釈の齟齬(解釈違い)はどこから生まれるのでしょうか。
 日本には昔ながらの表現方法でたった17音(正確には17モーラ)で文を作る俳句や川柳というのがあります。「昔は紙が貴重だったから長々とは書けなかった」とかそういう理由も無くはないのかもしれませんが、紙やコンピューターの普及している現代でもそれらの表現方法は楽しまれています。
 短い文章は長い文章よりも込められる意味の量が減ってしまいます。しかし、文章の長さ、描写の密度はそれ自体が作品の印象に繋がってしまうので「自由」にはできません。言葉少なに書けば曖昧に伝わるのは当然ですが、それでもそれがアートであるのならば「解釈」によって復元される意味量は必ずしも減らないというのが面白いところです。
 松尾芭蕉の有名な作品に「古池や蛙飛び込む水の音」という俳句があります。これ以上説明しようがないほどに、この俳句の意味はたったこれだけです。
 小さな子どもが学校なんかでこの俳句を知った時、どんな反応をするでしょうか。意味は分かるけど意図が分からないという反応になりそうです。が、それは大人も同じかもしれません。「コンクリを素手で叩いた時の音」と何が違うのでしょう。「ポチャン」と「ペチン」の違い……。これは文字で表された形式的意味を別のものにすり替えて揶揄しただけで、実際この句を鑑賞した人は「これがアートであるなら直接的に音を表したのではないはずだ」と考えて踏み込んだ解釈を開始するはずです。その過程の例として、私がこの句の解釈を行いながら思い浮かんだことを列挙してみます。

  • 「ポチャン」程度の音が聞こえるということは周りは静かだったはずだ。
  • ひとけがなく物寂しい中、小さな蛙の水音はその自然の営みに囲まれた状況に思いを馳せるきっかけとなったのだろう。
  • 池の古さを実際に知るのは難しいので、ただ手入れを受けていないようすが寂れて見えたことを老廃や自然の底知れなさのメタファーとしているのだろう。
  • 音がする前に蛙を認識していたとは思えないので音から蛙を想像しただけで、水音に期待したものが生きた蛙であったとも言えるはずだ。木の実が落ちた音ではつまらない。
  • 芭蕉ほどの人がわざわざ句として残したのだからその情景はよほど心動かされるものだったのだろう。
  • 本当は芭蕉の名前を名前を借りて素人作の適当な句を有名にしてみただけなんじゃないのか?

 ここに列挙した推測はこの句の形式的意味の隙間に私自身の知識や経験を当てはめてこそ生まれたものです。あまり静かだと物寂しいというような体験もそうですし、蛙の飛び込む水音が「ポチャン」だろうと思ったのもそうです。あるいは知識としては、これが有名な俳人松尾芭蕉の句であること、作られたのが400年ほど前の日本であること、そのような情報も織り込んでいます。
 私の最終的な解釈としては「音のない自然の広がる中、芭蕉がその静けさに心細く思っていたところ小さな水音が聞こえて生命の存在を嬉しく感じるとともに、芭蕉はその情景を老いながら生きる自身にも新しく感動が与えられることと重ねあわせた」となりました。その上で印象としては「有名俳人がこの句を大切にし今に伝わるという事実があるから深読みもするし情緒も感じるけど、句自体は平凡も平凡だな」程度のものです。句自体の意味の少なさゆえに高次元な推測まで巻き込むものとなりました。
 私自身は以上のような解釈を行いましたが、「古池って誰?」とリアクションを返すような人が読んだらまた違う解釈をし、違う印象を得るはずです。
 松尾芭蕉の死から325年(調べました)、現代までに多くの解釈が生まれていますが彼がもし生きていたらそれらをどう感じるでしょうか。ある解釈に対しては不愉快かもしれませんし、または愉快かもしれません。しかし間違いなく言えるのはたった17モーラで表された日本語では解釈が鑑賞者それぞれで違ってしまうのは到底仕方のないことで、そこに受ける印象もまた然りということです。
 まるで作品の方を責めるような言い方になってしまいましたが、そうではありません。同じ作品を鑑賞して違う解釈を生むならば、「違い」を発生させたのは作品の方ではないと言えるのです。形式的意味以上の解釈について違いを生むのは鑑賞者がその隙間を埋めるために使う知識や経験の違いなのです。
 最初に解釈とは「創作物に触れて、その形式的意味に自身の知識と経験を加味し完全な意味を復元すること」としましたが、知識や経験の違いに加えてこの「完全な意味」というのも鑑賞者からすれば無限定であり異なってしまうという問題があります。例の句にしても「蛙が古池に飛び込んだ時の水の音」という読み取りでこれこそ完全な意味だと感じる人もいれば、先の私の解釈のようにその場所の情景や作者の心境まで含めてその完全な意味だとすることもできるのです。
 解釈には作品の形式的解釈はもちろんのこと、形式的意味を状況証拠のように扱った経験に基づく推測(認知的な意味)、さらにそれでも不確定な部分について「より感動できる作品」への積極的補正、付加的情報を考えた場合に作品はどのように変化するか(もし二匹目の蛙が飛び込んだら)を理解しようとする回帰分析的解釈(関数的解釈)など様々な踏み込み方があり、そのどれを「解釈」と呼ぶことも「鑑賞者が完全な意味だと思うまで」として考えれば正しいということになります。
 このようにまとめると、なんとなく抽象地獄の夢から覚めるような心地がします。現実のSNSで見かけるようなやり取りに随分近づいた気がするからです。
 「作者はこの表現をこういう意図のもとで描いたはずだ」「いや作者とてそこまでは考えていないだろう」「そもそもその表現をそういう意図だと感じるのは頭がどうかしている」
 ああ、ほっこりするような現実感。解釈違いの具体的な姿。解釈違いは「君とは感じ方が違うね!」「そうだね!」で済むこともあれば、時に人死の出るような争いになることもあります。正確に伝わらないことを許容しているはずのアートの解釈で何故争うようなことになってしまうのか。やはり隣の人間と解釈が違えば「不快だ」と感じることが争いの第一歩となっているでしょう。
 では何故解釈違いは不快なのか。それは当然の疑問であり、冒頭に書いた通り、私が解釈の仕組みを考えようとした動機でもあります。

アートは常識を期待し、解釈の一致は社会性となる

 振り返りになりますが、アートは「作者の鑑賞結果あるいは作者が予想する鑑賞結果と鑑賞者の鑑賞結果が一致することを期待する表現のうち直接的でないもの」だと私は定義しました。ではアーティストは何をもってその一致を期待するのかと言えば、解釈のための知識や経験を共有している人がいるはずだという期待です。このことをもう少しアホっぽく言い換えれば「自分と同じ常識を持っている人には楽しんでもらえるはずだ」という期待になります。
 そういう結論です。作者が見知らぬ鑑賞者に同じ鑑賞を期待するのと同じように、その作品を「楽しんだ」、つまり「作者の期待するように鑑賞した(できた)」という自負を持った人は、他の人がその作品を「楽しんだ」と表明したときに同じ常識を共有していることを期待してしまうのです。そしてこの期待と常識への推定はともに解釈したものが多ければ多いほど強く働きます。俳句ひとつの解釈なら違いを許容できても長編小説の解釈が違ったら「一体貴様はどんな頭をしているんだ?」と言いたくなったりするわけです。そして解釈が異なると気付いた時、「相手と自分は作品の外側(解釈に用いた知識)について同じものを共有していない」という認識に至り、もはや作品に関係なくその人間自身の常識や思考プロセス自体の違いに恐怖を感じてしまいます。さらに「同じ作品を楽しめる人間のはずなのに」という直前までの仲間意識が落差を大きくしてしまいます。
 つまり、解釈違いの不快感は「違う解釈をした人間の得体のしれなさに対する恐怖」と表すのが最も近いと考えます。ただ、解釈が違うから常識の何もかもが違うかと言えばそうでもなく、相手が突然殴りかかってくるかもしれないとまでは恐れることも(多分、大抵の場合は)しませんし、現実的にはSNS上のやり取りではせいぜい悪口が届くくらいでしょう。そうなると「怖いけど、恐れる被害もたかが知れている。というかほとんど無害だろうと理性では分かっている」という奇妙な心境になってしまいます。このよく分からない心境こそ、解釈違いを恐怖と呼ばず不快感と曖昧にしてしまう原因なのでしょう。やっと整理できました。めでたしめでたし。
 さて、これで解釈違いの不快感はおよそ説明はつけたつもりなのですが、実際に解釈違いという言葉が使われるシーンでは単に作品鑑賞後に感想を言い合って解釈違いが発覚し揉める、というようなことはそれほど多くありません。もしそれで解釈違いが発覚しても「なるほど、こいつの頭は少し変なんだな」というように自分は正しくて相手はおかしいという意識でむしろ寛容な態度を取ることも簡単です。私が長い間、解釈違いというもので揉める場に出くわさなかったのも私自身が原作を鑑賞するだけ、もしくは鑑賞して少しの無難な感想を言うだけ、そして周りもそんな人達ばかりという境遇に生きていたためだと思います。
 しかし、これがそうも思っていられなったのは多くの二次創作に触れ、自分でも二次創作をしてみるようになった頃からでした。そして巷で実際に揉めるのも多くは二次創作がかかわる場合です。(ここでは二次創作は鑑賞者が自らの解釈をもとに新たなアートとして創作するものを指します)
 二次創作が不快感を大きくする理由の一つは、二次創作と言えどもその作者は自らの解釈が他人と共有できると期待して創作を行うということです。こうなると「お前はあの原作に変な解釈をするにとどまらずその解釈に理解者まで求めているのか?」という主観的厚かましさへの不快感が生まれます。
 もう一つはその解釈での二次創作が他人に受け入れられることによる常識共有集団の分裂です。これは怖い話です。人間の大多数は社会性という本能を持って生きています。暮らしの中で出会う他個体に恐怖を持たず協力しあいながら生きていけるように、自らを社会に合わせ、他個体が社会に合わせているかどうか(社会意識に協力的な仲間かどうか)を評価しながら暮らしているのです。
 直接会って話をしないような、ある作品の鑑賞者の集団にとって社会性を確認できる要素は非常に狭く限られます。その中でも重要な共通点であるはずの解釈結果が不一致となれば不信感を大きく持つこともやむを得ないことでしょう。そして解釈それぞれにある程度の支持者がいるとなればムラが分裂してしまいます。
 インターネット上ではムラの完全な分裂を解釈違い抗争の一つの解決としています。そうできるだけの場所の広さと人と人の繋がり方の多様性がイイトコドリを実現していると言えるでしょう。
 自分と常識を共有し仲間意識を持てる人たち、そして解釈の合わないヤベー奴ら、それらの割合が半々だったら果たして自分の側が正しいと信じられるでしょうか。お互いを尊重する在り方はいつでも可能でしょうか。袂を分かつこととなったとき、恐怖の減少と引き換えに増す孤独感と折り合いは付けられるでしょうか。
 現実世界という原作に対して解釈違いを起こした人たちがそれぞれに別々の二次創作(世界)を作ろうとして……。長くなりすぎる上、本旨から外れるので考えませんが怖い話です。
 考えれば考えるほどに新しいテーマがいくつも出てきてしまいますが、解釈違いの理解としてはここで話を終えようと思います。
 あらゆる場所で起こる解釈違いは人間が個を持つ限り防ぎようのないことです。諦めましょう。

この説明でスッキリしましたか?

 私への問いです。ここに書くのは上記に対する読書感想文みたいなものです。
 正直に言えばあまりスッキリはしませんでした。今後も解釈違いへは不快感を発生させてしまうだろうと予測しています。
 解釈違い自体についても、作者は正解を発表することができるのです。他人と解釈が合わない社会的恐怖も不快感の一部ですが、自分の解釈は正しくないのではないかという過ちへの恐怖もあります。しかし今後も作者がその解釈の適否について意見表明なんてしそうにない、深読みしすぎた解釈についてはその解釈の支持者あるいはただ一人で「これが正解だ」と信じ続けるしかないことになります。
 解釈違いへの一つの解決は正解の解釈が示されることですが、これは作品のアート性を犠牲にすることであり、正解が発表されると分かっているならそれほど頑張って読み解きもしないという立場を取ることもできます。しかし、作品表現が不確定なものとして残した部分が「鑑賞者の解釈に任せたい(アート)」なのか「作品の未完成な部分で今後発表されるもの」なのかを鑑賞者側から読み解くことができないという問題があります。
 少し拡張してまとめると、作品中の部分的な表現の不存在についてそれは「不存在の意味」として表されているのか「意味の不存在(解釈への期待)」として表されているのか、それとも作品は未完成なのか(完成品と宣言されたものが後の発表でその時点では未完成だったことになる可能性を含む)、これらについて説明を付加することができないというのはアートという遊びの欠点だと言えるはずです。(この欠点はアートのみの欠点にあらず表現物全般に起こりうると言えそうですが)
 以上をもって、前項以前の本文について「アートは解釈違いを引き起こす形をしているからアートを鑑賞する以上は解釈違いを覚悟しろ」「解釈違いを解決すると失うものがあるぞ」「解釈違いへの不快感は社会性の副作用だから諦めろ」の3つを解釈として得ました。私は正解を知っているので発表しますが、この解釈は作者のものと一致します。

解釈違いの理解に必要な概念多すぎ!

 後書きです。
 この記事を書くにあたってはなるべく一般的で簡易な言葉を(自分の知っていて理解できる程度の言葉を)使うようにしましたが、その単語についても一通りはググりました。(法学の「悪意」や金融分野での「現金」など、一般的単語が専門用語と意味がずれていることがよくあるのです)。その過程で、解釈違いの理解のために役立ちそうな学問が多くありそうなことに気付きました。表現や解釈については言語学の中の統語論・意味論・語用論・記号論・哲学の中の解釈学、解釈違いから生まれる感情については心理学や医学の概念として社会性が議論されることを知りました。
 現時点ではそれら学問の勉強は何一つしていないのですが、解釈違いという身近な問題と結びついたことで理解しておきたいという願望は生まれましたし、何も知らないおかげで自分なりに学問のような何かを作る遊びができたのだとも思います。人が何故本を読めと言うのか、という問題も今なら「表現解釈は社会性獲得に不可欠だから」と答えられます。こういうことを書くと後で勉強してから全てを消したくなるものですが、アホな自分の記録として残しておきます。
 この記事を書き始め、そしてこの記事に書くべきことを理解するまで、私はたとえばアートと言えば「自由と愛と平和のもとに自然発生する人間の本能的営み」とでも思っていました。この表現自体、アホの私が「なんとなくそれっぽいもの」として生み出したものです。アホの私はそれさえもアートだと言いそうなほどにアホでしたが、どうやらそれは間違っていそうだと思える程度に理解は進みました。アホが生み出す何も考えない表現はアートでも論文でもなく「解釈は可能だけど意味や印象を代理していない表現物」なのです。
 私はアホだったので自分がなんとなくで作るポエムのような文(解釈は可能だけど意味や印象を代理していない表現物)が例えば「壁一面を赤いペンキで塗っただけ」のような難解なアートを同じだと思っていました。アートだと主張してしまえば他人からは区別はされなくなりますが、それは恥ずかしいことですね。アーティストがアートを理解しているのなら、なんとなくで作ったように見える作品でも期待される解釈があるのだろうと認識を改めました。
 知識が増えて考え方が変わって、過去の自分が恥ずかしい自分になるのが苦しいです。
 記事本文はここまで。

消すにはもったいなかった

 ※構成上外したものの、内容的には矛盾しないメモをとりあえず。
 前項では表現を意味の圧縮と呼んだが、この用語はコンピューターによるデータの圧縮をイメージしている。圧縮には可逆圧縮不可逆圧縮があり、この例えで言えば「表現」は不可逆圧縮。その理由は完全に同じ辞書を共有してはいないこと(個人間のシニフィアンシニフィエ対応の不一致)と意味の量子化に伴う劣化。
 コンピューターならデータのコピーは容易。コンピューターが扱うデータは意味と表現が一致している情報記述形式であるために記録をそのまま表現として使い、受け取った表現をそのまま記録に移せるから。人間がコンピューターの真似をできないのは脳内の情報記録状態がどのように保存されているか未だ解明されていないことが原因。ある人間の思考や感情を別の人間に移すとして移動先の脳の過去の記憶を損傷することなく再現することができるのかという問題もありそう。
 馬の形を彫刻や絵で表現することは視覚で得た情報の再現であり具象的表現だが悲しみを「悲しみ」と表現することは具象的ではない。その場合それを解釈する人間の辞書が対応する「悲しみ」の意味が自らと同じものであることを期待する。ただし悲しみを悲しみと表現するのは限りなく直接的。
 語彙が意味に対して全射である言語が開発されたとしてその言語を使う人間同士のシニフィエが一致していることを確認することは困難。

修正

 2020/02/28
 記事を書く過程で記号学に興味を持ったため後日図書館で借りた3冊の本とオンラインのテキストにざっと目を通し、記号学については概要に触れた程度ながら、いくつかの観点に整理がついたため内容を修正。ある表現の字義的意味には一通りの字義的説明が可能であるとしても人間が脳内では意味を印象と結びつけて体系を作っているために感覚的な印象(イメージスキーマとの対応)としての「理解」というものは個人相互に一致しないとの考え。(以下は内容として変更した箇所のみ)
 ・解釈が必要な理由6段落目「創作物(意味)の原本」→「創作物(意味)が与える印象の原本」
 ・7段落目「作者の脳内創作物を表現媒体に圧縮」→「一定の印象が得られる表現としての作品」
 ・7段落目「(形式的理解・形式的意味)」→「(感覚的情報取得)」  ・7段落目「作者の「表現しようとしたもの」を頭に再現し(ここが解釈・解釈による意味)」→
 ・解釈と印象を生み出す遊び1段落目「意味を伝える」→「印象を与える」
 ・3段落目「それは論文ではなくて」→「それはデータではなくて」
 ・8段落目「アートにおいては意味や印象を直接的に表したものではない表現(作品)が」→「アートにおいては作者にとってある印象のために作られた表現が」、同文「意味や印象を与える」→「印象を得る」
 ・9段落目以降削除。新規記述。  ・そら解釈も合いませんわ……1段落目1文目削除。
 ・3段落目新規記述。

おまけ

 蛇足も蛇足、何の意図もありません。途中息抜きに書いていた関西弁松尾芭蕉と冷静沈着な弟子曽良くんの漫才です。ぜひ関西弁の音を感じるように読んでください。
 どこか他所の作品の影響を受けてはいますが、二次創作ではありません。キャラクターの著作権は認められないそうなので。(これも後でちゃんと調べておきます)

  『古池や蛙飛びこむ水の音』

芭蕉「ごめんやす。曽良くん、久しぶりやな」
曽良「お久しぶりです。長旅お疲れ様でした」
芭蕉「いやあ、ほんま大変やったで。大変っちゅうか、めっちゃ長う感じたわ。途中からは一人やったし、山越えやし、景色は代わり映えせえへんし」
曽良「ひたすら山道ですもんね、さぞ心細かったでしょう」
芭蕉「それ! ほんまそれな! 途中いっぺん泣いたろかおもたもん」
曽良「泣くほどとも思いませんが……」
芭蕉「やかましいわ。いや、ほんでな、山道やんか? 人おらんやん? いや、あの山、人どころか虫もおらへんねん。 山ん中、シーンっとしとるねん。風吹かんかったら何の音もせえへん。足元で砂がジャリジャリいうだけで」
曽良「知ってますよ。同じところ通ったので」
芭蕉「まあ知ってるわな。そらな、静かすぎるから言うて熊やら猿やら出てきて賑やかにしてほしいわけちゃうで? 熊も猿もおるような気配せえへんからそこは安心やったんやけど、静か過ぎても天狗でも出てくるような気ぃしてくるやんか?」
曽良「出ませんよ。天狗というのは想像上の生き物で……」
芭蕉「それは分かってるわ! 要するに不気味や言うてんねん。そうそうほんでな、『怖いなぁ怖いなぁ』言いながら歩いてたら」
曽良「それ未来の……」
芭蕉「訳わからんこと言うな。今ええとこやねん。ほんで『怖いなぁ怖いなぁ』とか、思てたけど言わんようにして歩いてたらやな」
曽良「はぁ」
芭蕉「ポチャン……。音が聞こえたねん。ポチャン……。って。一回だけやけど」
曽良「それ、蛙でも池に飛び込んだんじゃないですか?」
芭蕉「先言うなや! それ一番言うたらあかんやつや!」
曽良「えっ、すみません……」
芭蕉「いや、まあ、そうやねん。実際のところは分からへんけど、芭蕉もその時思てん。ああ、蛙がおったんやなって」
曽良芭蕉さんと同じ発想だったの凹むんですけど」
芭蕉「君なら言うと思ったわ。いやほんでも、アレ結構嬉しかってん。ほんま誰もなんもおれへんと思て歩いてたんや。正直、熊でもええからそろそろ誰か出てきてくれへんかな思てたところに蛙や」
曽良「蛙だと決めつけたんですね」
芭蕉「いや、蛙やねんてアレは絶対! 蛙、丁度ええ! 丁度ええねん、蛙。熊とか猿とか天狗やないにしても、例えば兎が出てきてみ? 滅茶苦茶ビビるで」
曽良「まぁ、微妙なところですけど、確かに兎なら驚くかもしれませんね」
芭蕉「せやろ!? ポチャン……ぐらいが丁度ええねんかな。アレでだいぶ元気もろてここまで降りてこられたわけや。ほんまあの蛙には癒やされたわ」
曽良「旅に癒やしは欠かせませんよね」
芭蕉「いやぁ、ほんまになあ。それに比べて曽良くん」
曽良「はい」
芭蕉「どこの弟子が師匠置いて先行くねん!」
曽良「あれは芭蕉さんが悪いんですよ」
芭蕉「どこがやねんな。仲良う一緒に歩いてたがな」
曽良芭蕉さん、山も序盤で足挫いたじゃないですか」
芭蕉「あれは事故やん。しゃーないやん」
曽良「そうですね。私もそう思ってさりげなくゆっくり歩いてたのに芭蕉さん後ろから言うじゃないですか」
芭蕉「何をやねんな」
曽良「『さっきのアレでやってもうたんかな……』『右足だけ歩幅稼がれへん……』『曽良くんは足挫いたりしてへん? 大丈夫?』とかなんとか」
芭蕉「独り言やん! ええやん、言わせてぇや! しかも最後のは曽良くんに無視されて独り言になったやつやん!」
曽良「覚えてるじゃないですか」
芭蕉「忘れられんわそんなん。怪我人につめたすぎるねん……」
曽良「私も芭蕉さんの独り言を下手に無視したのは悪かったと思ってます。芭蕉さん歩くの遅いからすぐ遅れるし、近づいたら近づいたで息遣いが暑苦しいし、イライラしてたんですよ。なので『なんか今日朝から調子悪いねんかな……』が五十回ほど聞こえたあたりで限界が来て置いていってしまいました」
芭蕉「そんな言うてへ……いや言うたかもしれんけど……何も言わんと置いていくんは寂しすぎるやん」
曽良「今度からはちゃんと『我慢の限界です』って言いますね」
芭蕉「いや置いていくなっちゅう話で……まあ、でもええわ。弟子が冷たい代わりに蛙が励ましてくれたからな。感動のあまりに一句詠んだぐらいや」
曽良「へぇ。どんなのですか?」
芭蕉「『古池や蛙飛び込む水の音』。どや? なんか応援されてる感じするやろ?」
曽良「いえ、全然しません。でも風情があって良い句だと思いますよ」
芭蕉「素直やないな。蛙の飛び込んだ水音が『芭蕉さん頑張って!』言うてるみたいに聞こえたっちゅう句や」
曽良「そうは思えませんけど……。蛙の水音は本当はこう言いたかったんじゃないですか?」
芭蕉「なんて?」
曽良「はよ行けや!(蛙飛び込む水の音)」
芭蕉「もうええわ」