読書感想文その1

人生初の読書感想文

 を、書く。一応は学校教育を受けた人間なので読書感想文を今まで全く書かなかったのかと言えば嘘になる。サボれるだけサボりはしたが、一度や二度は書いたはずだ。ただ、難しいとか面倒臭いという以上に読書感想文というものがとても恥ずかしくて、なるべく「感想文」にならない形で、自分の感情を表明しないように書いていたような気がする。あまりにも昔のことで思い出せない。この読書感想文は完全に独り言として書く。
 読書感想文は恥ずかしい。何故か。
 読書に限らずとも感想というものは、それを無数に用意すればその人の人格を推定・復元できるものではないかと思う。人間の人格は何がそれぞれを異ならせるのかと言えばそれは、何を面白がるのか・何を嫌がるのか、というところではないだろうか。ある入力がどのような出力を返すのか、つまり数列から母関数を求めるように、読書感想文は物語という非実在非日常の出来事と言う入力に対する感想という出力を表明することで、いわば日頃は服で隠している肌を晒すように真に生身に迫られる恥ずかしさがある。
 そして恥ずかしいのは晒すことだけでもない。人格だと思いこんでいる感情の中に矛盾が見いだされるのも恥ずかしい。人格の未熟なうちは面白いものと嫌なものが同時に存在するとき、どちらか一方に気付かなかったり無視したり、無意識に感情の内的矛盾を発生させて、それでいて自分で矛盾には気付かないということはしばしばあるだろう。そして今の自分にも十分にそういった未熟さは残っていると思う。そんな未熟な人間が感想文なるものをいくつも書けば、はたから見て「あれを嫌がるくせにこれは面白がるのか」と、思われるようなことになりかねないし、もし幸いにそうならなければ自分の最も根源的な人格に迫られることになる。
 改めて言うが私が今まで何度か書いた読書感想文モドキは嘘の感情をもって書いたか、感情的感想を書かなかった。書いたところで「面白かったです」程度のことだっただろうと思う。仮にそう書いていたとしても面白かったというのは嘘に違いない。私は成人するまでほとんど小説を読んだ経験がなく、その中でも読書感想文のために読んだ本を楽しんだ覚えはない。
 そんな私も最近ようやく小説を面白いと感じるようになった。小説をほとんど読まなかった人生でも、本そのものはそれなりに読んできた。平均値があるならそれの2倍や3倍は読んできただろうと思っている。しかし読むのは大体が実用書の類で、読み終わっても知識の取得による成長の喜びのようなもの以外の面白さを感じることはほとんど無かった。それに、そもそも面白いものを面白いと思うこと自体に後ろめたさと恐怖があった。物語は特に学問的知識を得る時のような正義の後ろ盾が無いのが不安だった。エロいものをエロいと感じること・そう表明することとの区別がほとんどつかなかったし、結果的に今はそれも正しい感覚だったと思っている。しかし、マクドナルドのハンバーガーだろうが美味しいものは美味しいように、エロいものはエロい、面白いものは面白いと感じることが現時点の自分にとってどうしようもなく正しい事実なのだと受け入れるようになった。
 将来の自分は新しい知見によって違った感想を得るかもしれないし、今の私から見てもそちらの方が優れていると思うかもしれない。そういった意味では感想文はいつでも恥ずかしくなり得る。
 それなら何故今そんなものを書くことにしたかと言えば、積極的には、正義のない物事を楽しむことへの自信が少しはついたことへの記念と、恥ずかしくとも今の人格を保存したいという欲のためである。そして消極的には、恥ずかしさは内側にしかないという事を理屈の上では理解できたことが秘密(内側)と表現(外側)との垣根を小さくしたためだと言える。この長い長い言い訳は垣根の未だ大きなるを示すに違いないが、これでも小さくなったのだ。

殺戮にいたる病(我孫子武丸)

 名前だけは聞いたことのあった作品。Twitterフォロイーの読書好きが面白いと言っていたので読むことにした。
 読み終えて最初に感じたことは構成の気持ちよさだった。絶妙な人物配置に始まり、それぞれの人物がそれぞれに、科学的・物証的捜査としてではなくあくまでも心理的に犯人に迫り冒頭部に描かれる物語の収束へと向かう。叙述トリックは比較的シンプルな仕掛けであるものの、犯人像の不気味さも加わってやはり最後の最後まで謎を残す。最後の数ページなどではなく、本当に最後の1ページ1段落にタネ明かしを詰め込んでいるこの構成の無駄の無さは今まで読んだ中で一番の気持ちよさだった。この本の面白さは読書感想文でも書いてみようと思ったきっかけでもある。
 少し話は逸れるが、小説というものはどうしてこう、このサイズの本のこの程度の厚みになるのだろうと思っていた。文庫本にして厚み1cmから2cm程度、文字数で言えば10万字からせいぜい30万字。もちろん複数巻の作品などもあるのだが小説の8割ほどはこの範囲に収まるのではないかと思う。しかもこの厚みの中で、ものによっては尺稼ぎ文字数稼ぎとしか思えないパートの入るものもある。出版の都合があろうことは想像できるが、これは果たして究極に面白さや美を追求した分量だろうかと、読書の集中力が切れた瞬間にふとそう思う。
 この作品を読んでいる途中にも当然のように集中力の切れる瞬間はあった。しかしそれは話が退屈だからではなくて実際私の脳が疲れてきただけの話であり、この作品の場合、一度読むのを止めてまた脳が集中力を取り戻したら再開しようと考えた。ぼーっとした状態で読んだらもったいないと感じたのだ。ミステリー物、叙述トリック物として読書に集中力が要るのは普通のことなのかもしれないが、この作品では特に文章に無駄がなく、トリックに直接は関係しない部分でさえ一文も読み落としたくなかった。そして実際読み終わってから作品内に不要な部分はほとんど思い出せない。大学の博士の長い語りか、序盤の病院の老人との話か、そのくらいのほんの僅かしかない。
 この作品の感想として殺人事件としての犯人の異質さについては触れざるを得ないだろうが、私にとってそれは不気味さの表現であるとかそういったものではなくて、自分自身の欲と融合する哲学を完成させ損ねたような、主観的な合理性と欲の衝動性が混じり合ってむしろ尋常なものとして実在性を醸していると感じられた。この性質は犯人だけではなく、他の登場人物にも共通している。全員が変で全員が主観的にまとも。犯人だけが変だとか、犯人と雅子だけが変だとか、ボーダーラインがどこにでも見つかるような、そんな皮肉さえ含まれているように思う。
 一度読み終わった小説を再び読もうとはあまり思わないのだが、この作品は「本が読みたくなったらとりあえず読む本」のリストに入れておく。読んでいて気持ちのいい作品だった。
 あと、これは感想ではないが、この作品と次に書く深い河については地の文に人物の名前を使った後、「彼」や「彼女」という指示代名詞を使って主語目的語問わず当該人物を表していた。あまり慣れない表現だが、時代性だろうか。
 最後に。この作者は京都大学文学部哲学科中退なのだが、これほど信頼できる経歴も他にないだろうと思う。同経歴の他の小説家がいないか検索したが見つからなかった。もし同経歴の人がいたらぜひ小説を書いてみてほしい。

深い河(遠藤周作)

 この本は先の殺戮にいたる病を読み終えてすぐ手に取った。非ミステリーの、純文学のような面白い小説を読みたくてA→zonのレビューを参考にしながら探しているうちに見つけたものだったと思う。今確認してみると121件のレビューで平均4.4、時代的にA→zonの誕生以来は話題の本というわけでもないのに高い評価を受けている。カトリック教徒の作者が描くインドというテーマも面白そうだった。
 この作品を一言で言えば「インドに行って人生が変わった」という人生ペラペラの代名詞みたいなストーリーを重厚に描いたものだ。作品を馬鹿にしているのではない。実際に作中インドに行くグループの中にはペラペラ人生の若者もいれば、ビルマの戦地を命からがら生き残り、戦友の弔いを行おうとする老人もいる。そんな彼らを使って「インドに行って人生が変わった」という言葉を実験にかけるようなこの物語は「信仰とは何か」という問いを軸に奥行きが広がる。
 予め作者についての予備知識を仕入れてから読んでしまった影響もあるのだが、この本は作品を通して作者が見えるタイプの物語であり、その人柄が良さそうだという意味で好印象だった。作者、遠藤周作は1923年生まれ、戦前の時代の人でありカトリックの家に生まれ育ちカトリックと共に生きた人物らしい。
 そして「深い河」は1996年、作者73歳にて発行され、後すぐに亡くなられた彼の遺作となった。それを踏まえ、流石にというか、92年発行の殺戮にいたる病などと比べても文体や漢字表記・送り仮名に古臭さがあり、作中若いはずの人物の語り口もどうも若く感じられない。しかしそれは作者にとってのかねてよりの言葉遣いであるとして、仮に文章の癖だけを誰か若い人が書き直したとすれば、他は70代の人の書いたものと思えないようなキレが感じられる。それだけに、この小説は小説としては少し物足りなさもあった。
 この作品の本文は暴行を受けた大津の容態が急変するという「転」で終わっている。「結」についてはよく解釈すれば想像がつくと言えなくもないだろうが、私はきっと作者の命が書き上げるまで持たなかったのだろうと感じた。そのラストばかりでなく、大津と美津子の関係以外はおよそ問題が解決されていないか、多少の妥協があったようにも取れる。ただ、ひょっとすると多くの問題を解決できないまま終わってしまったのは大津であり、また作者であり、作者から見た事実の最後の一端が小説の最後であったようにも見える。
 大津はカトリックであったが、元からそうであるまま生きたわけではない。自分なりの信仰を探しながら彷徨い、結局は自らがカトリックと信じる「何か」に従う生き方を選び、ついに道化さながら異教の地に仕えた。その地で彼がジョークを身に着けていたのはもはや他人との対話から見つけるべきものがなくなったためではないか。
 結局、この作品では信仰が誰かを具体的に救った・救っているようには見えない。そんなものに身を捧げた大津は人からは人生を台無しにしたとまで言われ、しかし後悔はしていないと告げる。この作品はそれを傍から見ていてどうであれ、生き方を後悔せずに死ねることが唯一信仰の効用であるとでも言うかの如き中途半端な終わり方だった。そういう意味では小説風のジョークだったのかもしれない。面白い作品だった。

i(西加奈子)

 勘弁してほしい。
 とあるきっかけで500円の図書カードを貰ったのがきっかけで本屋に立ち寄り、膨大な量の本が並ぶなか私が頼りにしたのは本屋大賞だった。芥川賞直木賞に比べて読みやすい(本屋からすれば多くの人に売りやすい)作品を選ぶ文学賞であると誰かから聞いたのを思い出した。わずか500円の図書カードでハードカバーを買ってはタナボタ感が薄れてしまうので文庫化されている古めのノミネート作品をざっと見て回った結果、興味を引いたのがこの作品だった。
「この世界にアイは存在しません。」
 立ち読みしながら、いい出だしじゃないかと思った。が、よく見ればこの一文でもハズレの匂いを感じるべきだったようにも思う。雑に引用したのではなくて、3度確認して正確に書き取ったものだ。終わり鉤括弧の手前に句点がついている。現代日本語小説のほとんどでは採用されない記法だが、まさか校正が一行目を見落とすはずもない。結局、この記法は統一されて最後まで同じなのだが、そうした理由は分からない。理由は分からないものの、やはりこれは小説という体の作品であることを疑うべき要素だったと思う。
 読むのに使った時間と、500円を超えて支払った金の分だけ腹が立つのに、感想まで長々とは書きたくない。簡単に言って、この作品はエッセイの書き損ないを小説化し損なったような代物に感じた。
 まず、主人公の経歴があまりに作者と似ている、そして現実の社会的事件をふまえた現実世界を舞台としている、さらに思想が主人公のものか主人公のイエスマンのものしか出てこない上、地の文には時折作者の人格が直接的に挟まれる。こんなに偏りっぱなしの話を書くならエッセイにすれば良かったのにと、どうしても言いたくなる。この主人公は出自の悩みとともに深い考えを持っているかのように描かれるが、「悩んでいる」というアイデンティティーを補強するために理屈をつけるばかりで一向に悩みの解決に向かおうとはしない。つまりこれは、正義か悪かも分からないようなものを信じているより悩み続けている方が立派だという怠惰の理論で主人公が開き直る話で、皮肉なことに深い河とは対照的な精神を元にしている。
 それがなぜ皮肉であるかと言えば、この作品を読み終えた時の腹立たしさが「殺戮にいたる病」および「深い河」を読む原動力になったからだ。ひょっとすると小説という体のものではないかもしれないという点では深い河も同じなのだが、この作品に腹が立つのはそのような形式にすることへの自覚の無さと、思想への科学的態度の無さが原因であろうと思う。
 良いところを言えば、表現の生々しさであると思う。序盤は幼い頃の話であり、これは架空の人物の架空の思想や体験を生々しく未熟に描いているのだろうと感じながら後に変化と成長へ繋がるものだと思っていた。しかし読み進めて見れば主人公の考え方も周囲の考え方も特に変化はせず、結局生々しく感じたのは実に作者自身の思想だったと気付いたときは残念な思いでいっぱいになった。
 タイトルである「i」もわざわざ虚数の表現として持ち出した割には結局数学的性質とは何ら関係されない。「かつての高校数学教師には存在しないと言われたが、大学では存在すると言ってもらえた」、で終わり。これだけは何か面白い仕掛けがあるのだろうと考えていただけに、まったく虚を突かれた思いがした。虚数だけに。いやもう本当に洒落程度でいいから何かかけてほしかった。
 とばっちりかもしれないが小口側余白がページによって5mmもなくなる製本には出版社か印刷所にも苛立ったし、謎の対談をさせられてる又吉直樹も不憫だったし、これをノミネートした本屋大賞も信用しづらくなった。冒頭「勘弁してほしい」とはそれらをまとめてのことだ。
 結局長くなってしまったが、ある意味では人生で一番大きな読書体験とも言える出来事だったので記録しておいて損はないと思う。順番で言えば一番上に書くべきだったのかもしれないが、どうもそういう気にはなれなかった。今回の読書感想文はここまで。