「イジメに反対」とは言わない方がいい

はじめに

イジメの話題はTwitterでよく見かけます。
話題に上がるのはイジメを苦にした自殺者が出た場合がほとんどですが、そんな時のTwitterの様子を見ていると「イジメのない世界は程遠いな」と感じます。
Twitter世論はおよそイジメを否定するような調子で意見を並べています。毎度見かけるような意見を上げると
「イジメっ子にちゃんと罰を与えたほうがいい」
「イジメを受け続けるくらいなら学校なんか行かなくても良かったのに」
「イジメは犯罪なのに甘く見られている」
こんな具合です。
別に間違ったことを言っているとも思いませんが、イジメに反対の立場でコレを言うのならどうもおかしく思えます。
ここではイジメ自体を無くそうという話ではなく、大きいものから小さいものまでイジメを認識しようという話をするつもりです。
 

イジメは攻撃の主観的認識にすぎない

私はイジメられたこともイジメたこともあるつもりです。
イジメられたときは〇〇君は乱暴だから仲良くしないと決めていたらいつの間にかイジメられました。私がそう感じたからイジメです。逆にイジメる側は自分こそが正しいと思った行いをしても客観的にイジメと思われるわけです。行動のどこまでがイジメかは人によって違うのです。つまりこんな文章を書いてイジメ反対派が傷付いたら反対派へのイジメだと言われることもあるかもしれないということです。イジメは誰かが「それはイジメだ」と言えば成り立つのです。
日本では公的に人の行為の善悪の判断をしているのは裁判所だけです。人殺しと言えば世界中どこでも悪ですが、人殺しをした人にどれだけの罪があるのかは裁判を経なければ分かりません。正当防衛で無罪かもしれませんし、10年の懲役もあり得るわけです。
イジメのニュースなんかを見てこんなことを言う人がいます。
「A君はB君の悪口を常々言っていたらしい。B君はそれで人生が嫌になって死んだ。A君のせいでB君が死んだからA君も死ねばいい」
こんな意見を言う人はハムラビ個人裁判所の看板でも掲げるつもりでしょうか。この意見自体も他人から見ればA君へのイジメかもしれません。
攻撃行為が法に触れるものならば犯罪と呼ばれます。世の中のどんな行為が法に触れるかの判断は一般人には困難で、他人の行為を気安く犯罪だとは言えないものです。しかし「イジメ」という言葉はそれが主観に過ぎないために「悪いこと」という意味で都合よく使われてしまうのです。
 

学校のイジメ

言うまでもなく、イジメの代表と言えば学校で起こるものです。
靴を隠されるとか机に落書きされるとか悪口を言われるとか、そういうものです。学校のイジメと呼ばれるものには刑法に定められた犯罪が多く含まれるために絶対的な悪だと言われがちですし、学校も悪として処理しています。でも学校に蔓延るイジメは全く悪で、攻撃的意図のもとに行われるものしょうか。
例えば修学旅行のグループ決めで「ノリの悪い奴は入れない」と特定の人物をハブる行為はイジメと呼ばれるでしょう。しかし、ハブった方も攻撃意図はなく自分の修学旅行を台無しにされたくない一心かもしれません。そこへ先生が来て「入れてあげなさい」と強要して、世界は平和になるでしょうか。
理由がなければ人はワガママです。ワガママというのはつまり個人の利益を最大限追求するということです。個人の利益とは人生における幸福です。人は大人になると安定的幸福を手放さないように行動することを覚えますが、ワガママでなくなったりはしません。
子供は失うほどの資産も信用もありませんし、その時その瞬間に楽しいことが第一になるのです。ノリの悪い奴を仲間に入れないのは実に理にかなっています。「先生に怒られる」と「修学旅行台無し」を天秤にかけた上で意地でもノリ悪を仲間に入れないこともあるでしょう。
ではこんなことが何故起きるかと言えば子供の世界では道徳的信用はあまり通用しないからです。一人で優しくなっても誰からも評価されないのでは損ばかりです。それどころか純粋な幸福を追求する子供の世界では不気味に思われて信用どころではなくなります。
ところが人は大人になるにつれて「楽しい人と付き合う」よりも「危ない人を避ける」方が大事だという知恵をつけます。その段階になってようやく優しい振る舞いの価値が出てきます。攻撃的行動を取らないことが利益になって、ようやくイジメは減ります。
学校でイジメが多いのは子供の理性や道徳観が足りないからではなく、自分の利益を優先したら"イジメない理由が特にないから"なのです。
 

イジメの目的

イジメない理由がないからイジメるというのは少々無理があります。
人が人をイジメるのは子供がアリを踏んで遊ぶのとはわけが違います。本気で反撃されたらどれだけ体格差があろうとも怪我はするでしょう。ある程度リスクが有りながら何故イジメるのか。それは集団を維持する仕組みが不完全な分を補うためだと考えます。
集団を維持する仕組みと言えばルール、法ですが、日本でも国会が毎年開かれることから分かるようにルールは完全にはなりません。法を破れば犯罪になります。法が存在する理由の一つが刑罰を与えるためです。懲役、禁錮、罰金、それらは個人が執り行えば違法です。しかし、裁判所が定めた場合のみ悪人への応報としてそれらが合法に執行されるのです。では犯罪でない程度の被害を受けたらどうすればいいのか。イジメの出番です。
違法行為に違法な行為(懲役等)で罰が下されるように、ギリギリ合法にはギリギリ合法で応戦しようというわけです。「こいつが視界に入るだけで気分が悪い」→「こいつの気分も悪くさせてやる」、こんな調子です。どうせ公的には認められないので最初から裁判所気分で行えばいいのです。
例えば学校なら法律より先生がルールであり裁判所です。こんなに恐ろしいことはありませんが、実際そうなっています。イジメっ子には大抵不満があります。誰々はノリが悪い、不潔、行動が不気味、自分に無いものを持っている、そんな不満を学級裁判所に持ち込んで解決されるでしょうか。されないからこそイジメなのです。
イジメが起こった時、既に司法の信用はありません。司法の不備を自ら補うことがイジメの目的なのです。
 

イジメをしないこととは

イジメの始まりは「判断」です。物事の善悪を自分で決めることから始まります。
何かを悪と決めた時点でイジメが始まっているのです。たとえ人殺しを批判するにしても国家の司法とは別に(結論は同じでも)自分の判断を持った時点で私刑予備と言えるでしょう。その意見を外に発信すれば、それはもはや誰から言葉のイジメと言われても仕方ない行動となります。
こう考えると「イジメに反対」は一言で矛盾できるのです。何ともハッキリしないぼんやりとしたイメージの"イジメ"を自分の判断で"悪"として"排除しようとする"、この考え方は非常にイジメっ子寄りなのです。
本当にイジメを無くしたいときに言うべき言葉は「ダメ元でも警察行けば?」です。
善悪を判断するなとは言いませんし、私もしますが、これがイジメの一歩手前と思えないことは危険です。ぜひ用心しましょう。