なぜ私は恋愛モノのアニメを見て苦痛を受けるのか

はじめに

私がこの苦痛を感じるようになったのは20歳の頃でした。ただ何歳からこうなったかというよりもアニメを観るのに慣れてきたことで内容が心に到達しやすくなってからこの苦痛を感じるようになったように思います。この問題は慢性的なものですし、避けられるものは避けながらごまかしごまかしでアニメに触れる生活を送ってきました。ただ最近受けたダメージは自分の想定していた上限より大きいものでした。それはとある部活アニメの劇場版を見たときのこと。開始早々始まる脈絡のない恋愛展開にスクリーンを見ていられず足元に目を向け首から背筋に汗を滲ませ、もうシアターから出ようかと思うほど苦しくなりました。人からすれば異常でしょうが、私にとっても尋常ではありません。これは一度考えを整理せねばならないと頭を回し始めた次第です。
   

何の苦痛なのか

一言で表すならば嫉妬です。
嫉妬と言っても幸せそうな主人公たちに対するものとは少し違うはずです。結論を仮定した思考実験ですが、恋愛作品を見た多くの人が「恋愛描写で気分が悪かった」と感想を持っていたならば私の場合はそれほど苦痛を感じないはずです。私にとっての苦痛は「主人公たちの恋愛に感動した」という感想を持つ多くの人の、その多くの人達にとって正常な恋愛観と自分のソレとのズレです。
私は自分の感性がマイノリティーなのだとは思いません。感性がマイノリティーであることは人間にとってある程度の苦痛でありますが、それはマジョリティーへの嫉妬ではありません。嫉妬とは、マジョリティーであれマイノリティーであれ、その中でも思いの満たされない人たちが持つ気持ちのはずです。つまり私にとっての嫉妬とは「登場人物め、簡単に恋愛しやがって。喜ぶ客も簡単な恋愛に共感しやがって」という嫉妬なのです。
例えば『ドラゴン桜』をご存知でしょうか。潰れかけの低偏差値高校に弁護士がやってきて、経営立て直しのためにヤンキーばかりの生徒から東大合格者を出すという話で、絵が下手すぎるハンデを負いながら600万部も売れた大ヒット作です。世の中に東大合格を真剣に狙って真剣に勉強したことのある人はどれほどいるでしょうか。それほどいないはずです。だからこそ売れた漫画だと私は思っています。登場人物のヤンキーたちは100マス計算で計算力をつけて、国語の解答の作り方から答え方を学んで、英語を歌で覚えて、ちょっとした記憶法を試して、東大を目指します。それが難しそうなことは馬鹿でも分かりますが、そんな程度の対策でヤンキーが"絶対に"合格できないと感覚的に分かる人は少ないでしょう。高偏差値高校の上の方にいる素質ある人たちが、それでも溢れ落とす知識を詰め込んで詰め込んで競うのが東大受験です。ところがドラゴン桜では勉強初めて1年のヤンキーがなんやかんやで東大に合格します。つまり、東大はヤンキーが効率良く頑張れば入れる大学として描いているのです。それを現実の、ギリギリの競争をした受験生が読んだらどう思うか。呆れ返るか憎しみを覚えるはずです。
しかし『ドラゴン桜』を楽しめるのは阿呆だからだと言いたいのではありません。他にもいます。それは本当に余裕で東大に入れた人たちです。その人たちなら「そうそう、自分もこんな感じで勉強して合格できたな」なんて思えるはずです。私にとって恋愛作品はまさにこの後者のように、「恋愛強者の恋愛事情を、現実の恋愛強者の共感を得るために作られている」と思えてならないのです。それこそが私に苦痛を与える「嫉妬」なのです。
   

弱者の恋愛

恋愛の強者弱者とは何か。
パートナーがいない人は一見弱者のようですが、一概にそうとも思えません。そして恋愛の強者と弱者は何か能力の高さで分けられるものだとも思っていません。恋愛を行うことがその人にとって簡単かどうか、それこそが恋愛の強弱でしょう。
積極的な恋愛の理由を持たず、背が高い、筋肉質、顔がいい、胸が大きい、そういう特定の相手に向けなくても長所と思ってもらえる性質、好かれる素質によって何の価値の交換もなく勝手に対応(マッチング)していく。そんなふうに「狙って好きになってもらわなくていい」のが強者の恋愛なのだと私は考えています。
弱者の恋愛は契約的で、金を出す、面白い話をする、護衛代わりになる、社会的信用を与える、肉体的快楽を与える、そういったものを特定の相手に差し出して交換が成り立つと思って付き合うのです。 プレゼンをして、「好きになってもらう恋愛」なのです。 弱者と強者の恋愛も成り立ちますが、弱者から見たら弱者の恋愛、 強者からは強者の恋愛と思える関係になるでしょう。おそらくは長続きしません。
アニメ作品等でよく描かれるのはいかにも強者の恋愛です。好かれるために自ら長所を作りませんし、好きになってもらうためのアピールもしません。弱者なら当事者それぞれに戦略と目的があるものですが、多くの作品では当事者両方で「あの人のことが好きかもしれない」の気付きがあって、それを互いに確認できたらくっつく、おしまい、という強者恋愛の流れで片付けられます。アニメに限らず、世の中で恋愛と言えばほとんど強者の話です。たとえ強者の恋愛に大きな障害を持ち込んでも、人に好かれるところからの弱者にとってはゴールの先の話なのです。
 

弱者未満の存在

ではアニメ作品の恋愛は恋愛強者のためのものなのか。
明らかに違うでしょう。昨今はアニメ視聴者の層も厚くなって私の言う強者たちでもアニメを楽しむ人は大勢いるでしょうが、原作者やアニメ製作者がそんな人たちを意識しているとは思えません。好きなものを好きなように作っているか、オタク向けでしょう。オタク向けなら弱者の恋愛の方がウケるはずだというのも恐らく正しい戦略の一つなのでしょうが、オタクが望んでいるのはそもそも「リアルな恋愛への共感」ではなさそうだというのが話をややこしくしてきます。
アニメと言うのはそもそも絵(漫画)を動かすようにしたもので、到底リアリティーを出せない時代に生まれたものですから実写の真似事をすれば実写よりも表現力が落ちるのは明らかで、「せっかくだから空想をやろう」というのも自然なことです。夢物語の中にも共感は表現されますが、どんな気持ちを共感するのかを意識しなければ効果は発揮されません。そこでアニメ作品では恋愛を「空想の恋愛への共感」として描いているようなのです。空想なら何でもありですし、物言わぬツチノコとカッパの恋愛でもいいわけで、それなら私も何も思いませんが誰も共感できなくなります。実際には人間が、日本語で、同世代の(アニメ内の)現実の知り合いと、一緒に過ごすうちに、恋に落ちるなど空想にしても共感しやすいリアリティーのある設定で書かれた話が多くあります。私たちはツチノコには共感しないのに日本語を話す緑髪の高校生には共感するらしいのです。 ところがオタクたちの多くは恋愛を見たこと聞いたことはあっても攻略したことがないエアプ勢なのです。知らないものに共感などできるのでしょうか。そこで『ドラゴン桜』の話です。オタク向けに、実際のオタクにも想像ができて、しかし実行は困難な恋愛を見せる。オタクたちは恋愛が余裕だったから共感できるのではありません。東大受験を知らないドラゴン桜読者のように恋愛を「空想で」捉えている弱者未満のエアプ勢だからこそ共感できてしまうのです。
私は恋愛弱者です。狙いを定め、工夫を凝らし、必要なものを用意して、用意できないものは諦めて、運の部分は神に任せて、神の機嫌が良ければやっとリングに立てる人間なのです。そして幾度かの機会を得て真剣に取り組んだつもりです。私は恋愛を空想と思って見られません。私の苦労した恋愛というものを愚弄されたように感じます。そんな恋愛強者への嫉妬が私の苦しみの主なものです。が、他に悲しみを思うこともあります。アニメの場合、恋愛を楽しむ視聴者の多くは弱者未満の人たちでしょう。たとえ無知でも空想を楽しむ人達を責める道理はありませんが、彼らが私と同じく恋愛モノを現実視する日が来たらそこに生まれるものはきっと苦しみのはずです。だからあまり無邪気に楽しそうな様子を見せられては未来の彼らや過去の自分を思って悲しくなるのです。
 

百合/レズ作品愛好者

あえて書きませんでしたが、私が苦手なのは男女の恋愛に限った話です。
先までは多くのは作品は恋愛を簡単そうに展開させるから気に入らないという話でしたが、では男女間の弱者的恋愛を丁寧に進めるアニメならどうかと言えば、これは受け入れられると思っています。ですがそれは戦地で生き延びられた安堵のようなもので、決して楽に喜べはしないはずです。はっきり言えば疲れます。私も多分に漏れずアニメに空想を求める人間ですから、できれば私の経験の外に夢をみたいのです。
男女の恋愛を知ることで空想の男女恋愛は悲しみに変わりました。空想を楽しむ上で「知らずにいられる」のは重要なことなのです。では同性同士の恋愛はどうか。私は異性愛者なので同性愛において私は明らかに弱者未満ですし、今後弱者以上になることもありません。私は男なので「男性として女性をどう思うか/女性からどう思われるか」を考えることはできますし男性同士の恋愛もある程度具体的に想像はできます、しかし「女性として女性をどう思うか/思われるか」は体験することも無ければ現実感のある想像さえもできません。つまり女同士の恋愛に関しては永遠に無知でいられるのです。思うに夢物語の感動は知識の隙間に出会うもので、知識を辿って得られるものではないのでしょう。 私が百合を好きでいるのは恋愛エアプのオタクが異性愛展開のアニメを楽しんでいるのと何も変わらないのです。でもどちらも悪いことではありません。生活の上ではどんな知識でも得ておくべきです。現実ですから。でも妄想は余白にこそ描けるものです。全知全能の神がもし存在するならばきっと妄想は楽しめないでしょう。かわいそうに。
ここまで読んで下さった方なら私が「別に好きで百合好きなんじゃない」と言っても驚くべき言葉ではないと思ってもらえることでしょう。 でも確かに好きです。他人事だからこそ楽しめます。せっかく空想世界を鑑賞するのに現実に影響が及んでは堪りません。 私は鑑賞者であって、体験者ではないつもりですから。  

あとがき

百合をテーマにするか迷ったのですが「変わった趣味なんですね」と片付けられたくなかったことと、原因の解明こそが目的であったためにあのような題になりました。約4000字を書いて気持ちいいと思えたのは初めてのことで良い体験でした。  
私の考えが正しいと信じて同好の士に伝えます。この苦痛は現実を見ているからこそ受けるものですし、逃げだと言われようが百合は創作の本分を果たすものです。どうか自信を持って私に素敵な百合を届けてください。では。