若者が創作をしにくいのは何故か

創作する大人たち

前に記事を書いたのは5月だったんですね。しばらく離れている間に夏になってしまいました。今はコミケが終わって2日、大型台風の気配を風に感じる真夏の夜です。
いつものようにTwitterを眺めているとこの時期だけユーザー名を変える人がちらほらと見かけられます。xxx@30日目南114kという具合のものです。これらはコミックマーケットのサークル参加者がその参加枠をフォロワーに伝えるための表記です。そんなタイムラインを見ていると、絵を描いてPixivに上げているような人や、普段は声優イベントに参加するような人、海外に住んでいる人、色々な人がコミケに出ていることが分かります。
私は残念ながらコミケには参加したことがないのですが、コミケに出る人とオフ会で会うことは何度かありました。初めてそういう人たちに会ったときのことを今も覚えています。
第一印象は「こんなおじさんが漫画や小説作って発表しているのか」ということでした。おじさんと一言に言えば幅広い年齢になりますが、とにかく高校生や大学生に見えるようないわゆる若者でないことは確かでした。当時まだ辛うじて若者だった私にとって随分と年上の、見たところサラリーマン風の人がそんなに大きな創作意欲を持って活動していることが意外でした。
コミケ参加者には中年の方が多いのです。コミックマーケット準備会の資料等を見ても2011年時点のサークル参加者の平均年齢は31歳で、高齢化傾向にあると書かれています。参加者の年齢が高い理由を普通に考えれば「金」でしょう。私の知り合いにも絵を描く趣味の人間が何人かはいましたし、彼らも金さえあればコミケに出たりするのだろうなと簡単に想像していました。実際その中に、後にコミケに参加した者もいます。ですが、私はそういった若い趣味人の成れの果てとも呼ぶべきおじさんおばさんとは別の存在がずっと気になっていました。
それはアラサーあたりで創作活動を始めて、そこから半年や1年でコミケに参加するような人たちです。案外大勢います。私がTwitterでフォローしている人のうちおよそ2%ほどが当てはまっています。オタクばかりフォローしているので数値にバイアスはありましょうが、それでも「アラサーで創作活動を始める」という現象が私には不思議でなりませんでした。創作意欲というものは大人になるにつれて衰える一方で、元々そういった活動をしなかった人がコミケに出るとしたらそれは例外的なことなのだろうと考えていました。
他の記事をご覧になっていればお察しかもしれませんが、私はこの2ヶ月ほどでその誤解から解き放たれました。説明していこうと思います。

まさか自分が

前置きがしつこくなりましたが、私の話をします。
一つ前の記事でも書いたように、私は人から勧められて二次創作小説を書きました。きっかけはこのブログの最初の記事です。思うままの喚き散らしに屁理屈のベールを被せたようなあの気持ち悪い文章のことですが、あの記事を最初に読んでいただいた方から「そんなに文章が書けるなら二次創作小説でも書いてみれば」と提案されて、私は「やってみようかな」と思ったのです。
傍から見ればこれは実に普通な成り行きでしょうが、この「やってみようか」の心情が湧いてきた時、私は実に自分が大人になったのだと感じました。
下手くそな小説を書いて発表する、そんな事を若い頃の自分はとてもできなかったと思います。「発表する」を取り除いても書くだけ書くということさえしなかったかもしれません。「何かを作る」という意味では今までに全く経験がなかったわけではないのですが、絵で例えるならデッサン練習をしていた程度の話です。そんな私が小説などという創作らしい創作をすることになるとは予想もしませんでした。高校生あたりの自分が同様の誘いを受けていても「恥ずかしくてできそうにありません」をデンプンの膜で過剰包装して断りの言葉としていたと思います。
そんな自分が人に誘われるがまま小説を書いて、さらにそれ以降自主的に10作品10万字ほどの小説を機嫌よく書いてきました。今でも思います、「まさか自分が」と。この驚くほどの心境の変化はどこから来たのか、若いころは何がそんなに恥ずかしがったのか、少し記憶を遡って考えてみます。

創作する若者たち

私が中学生の頃、趣味で絵を描いている友人がいました。鉄道の写真を取りに行くのが趣味のクラスメイトもいました。大人になった彼らはもしかしたら今頃次のコミケの準備などしているのかもしれませんが、その彼らが大人になる前に(私の知らないところで)コミケに参加していた可能性は低いと思っています。
私の地元は東京から遠いのでコミケ参加の資金的ハードルは大きいものです。しかしそういった障害がなくとも、彼らは自分たちの創作物を公の場で発表はしなかったんじゃないかと思います。少なくとも当時の私にとって、創作物の発表なんて見せる方はもちろん、見せられる方になったって「恥ずかしいこと」でした。
絵を描いていた友人にその作品を見せて貰ったことがあります。その人は私が友人だったから少しその作品を覗かせてくれただけで大っぴらにはしていませんでした。「見せてくれ」とこちらが言って、「まあいいけど」と見せてくれたのです。見せて貰ったその絵はなんとも普通でした。せっかく見せてくれたのだからと薄っぺらく褒めはしたと思いますが、あまり大げさに褒めるわけにもいかない程度の出来で、こちらも少し恥ずかしくなったような気がします。そこに恥ずべきことが特段ないことも、それでも私が恥ずかしく感じたことも、大人の方には理解していただけるものと思います。
私の同期には何かを作っていてもそれを明かさなかった人が大勢いたはずです。そんな人の数が少なくないことは大人になって「昔話」をしたときによく分かります。漫画のキャラクターを真似て描くことなんかは誰しもが通る道で、レゴで大作を作っていたとか藪で木を拾ってはトーテムポールを彫っていたなんて変なやつもいます。皆こっそりとやっていたのです。
若い頃は言えなかった創作の趣味が大人になってから言えるようになる、そんな若者特有の恥ずかしさとは何なのか。ここからはビールを飲みながら書いてみようと思います。大人なので。

若者の創作活動とその公表

「若者」のひと括りでは広すぎてまとまりませんから、一度幼稚園あたりの記憶から思い出してみましょう。頭の整理に使っただけのようなものなので読み飛ばして構いません。
幼稚園の頃、全く確かでない記憶ですが、絵を描く時間が定期的にありました。動物だとか乗り物だとか家族だとか、大雑把なテーマはありつつも何を描いても褒められこそすれ怒られたりはしないものです。不道徳な絵や破廉恥な絵を描いたところで大人が苦い顔をするだけだったでしょう。他の子から何か指摘を受けることもあるかもしれませんが、少し揉めれば先生がなだめに来てくれるのだと思います。何かを描けば、何かを作ればそれだけで褒めてもらえます。平和です。
小学校、ご存知の通りここから平和でなくなります。イジメの話でも書きましたが、小学生あたりの子どもの世界は法治社会ではありませんし、かと言って大人の独裁も行き届いていません。利己的かつ全体主義的、そんな滅茶苦茶な人間関係を生きねばなりません。私はいつも大人しく宇宙や科学の本を読んでいました。悪目立ちしないようにと気を遣えば創作なんてしていられません。気の強い子はそれでも「どうだ」とばかりに創作物を見せびらかして、それが褒められたりあるいは批判されて喧嘩になったりしていました。平和ではないかもしれませんが、まだ健全です。学校の先生も保護者も、ある意味無責任にそんな光景を微笑ましく見守っていたことでしょう。
中学校、心が折れたり、折れずとも曲がったりします。何かを真似するのではなくオリジナルな創作を始めることも多い年頃だと思います。技術的には劣っていても情熱だけは注ぎ込んで自己満足を極めるのです。最高です。しかしその創作物は親には見せられません、友人にもあまり。そう、「恥ずかしい」のです。それに中学生ともなれば社会に生きることと遊びとを区別できるようになります。つまり相当の才能を持って、それで食っていけるほど優れた創作物を作れるのでなければまずは勉強に力を注ぐべきで、遊びに現を抜かすのは愚かだと考え始めます。私も嫌々勉強をしていました。受験の時期はずらせませんしスケジュールの問題からあまり遊んでいられないのはある程度仕方ありません。こっそりと創作活動をするようになるのはそんな事情もあってのことと思います。この状況は創作活動的にはあまり健全とは思えません。
高校、似た者同士が集う場です。現実の人間関係も落ち着きが出てきて、外ではオンラインの繋がりも育てつつ、創作自体もその作品の公開もしやすい環境が整ってきます。幼稚園や小学校低学年以来絵を描いていなかった人が改めてその趣味を始めるということも多いはずです。が、私の印象としては作品作りというよりは技術向上のための練習に時間を使う人が多いように思います。出来上がるのは練習の成果で、作者本人さえそれを作品と認識することが少ないのではないかと思います。活動は健全ですがどうも認識には歪なところがありそうです。
高卒、大学、おじさん枠です。思い思いの創作をする人はこの辺りから活動を活発にしているのだと思います。さて、大人になった彼らの心は一体何が変わったのでしょうか。

大人の強み、それは開き直れること

一言で言えばこれに尽きます。
「酒を飲みながら書いていたらダラダラと長くなってしまったなあ。まあいいか」
こんな事を言っていられるのが大人なのです。気楽なもんですよね。
さて、酒も抜けてきたのでここからはスッキリいきましょう。上のごちゃごちゃを参考に若い人にとっての創作への障害を考えてみました。なるべくシンプルに、それを感じる世代の若い順に大きく5つ挙げてみます。
 ①人と違うことをすると目立つ(イジメ等のリスク)
 ②作ったものを見せても褒めて貰えない
 ③人に見られる創作物は道徳性や美術性を求められる
 ④創作の内容と作者の人格を混同して評価される
 ⑤技術的に成長過程にあると思われて上達を期待される
①:これは大人になっても同じと言えば同じですね。ただ「気に入らなければ付き合わない」が大人になるにつれしやすくなるので問題は起きにくいでしょう。今はインターネットで気の許せる人にだけ公開することもできるのがありがたいです。
②:大人と子供ではここに意外なほど大きな差があります。人は技術や経験が多いほど褒め上手になれます。上手いところと下手なところが見抜ければ総合的には駄作でも褒めることができるようになるのです。子供やその分野に未熟な人はこれができません。子供の作品も、子供同士で見せ合うよりいっそのことプロにでも見せた方が良い感想を貰えると思いますがそんなことにはなかなか気付きませんし、そんな機会も少ないでしょう。
③:大人は無意識に子供に「善」や「純粋さ」を求めます。たとえ積極的に見せないにしても、隠れて作ったインモラルな作品を大人に見られては「ご指導」を頂戴することになりかねません。この期待に十分応えようとすれば幼児向け絵本のようなものしか作れなくなってきます。犯罪と違い、線引きがないことも相まって無制限に遠慮をもとめられるのです。何で叱られるか分からないとなれば隠すほかないのも当然です。
④:③と似たことかもしれませんが「子供の創作は自己表現だ」という思い込みがそうさせるのでしょう。もし真面目そうな大人がエグい作品を作ったとしても本人丸ごとで嫌われるか、「あの人にしては意外な作品だ」と思われるだけです。ですが子供の場合、作品の方はともかくとして、本人に何か悩みや問題があるんじゃないかと心配されます。実際にそういう可能性も高いでしょうから余計にです。これは逆に大人になってこそ「そういう心配」の方の気持ちも分かってしまい何とも難しいところです。
⑤:一番の原因はズバリこれです。これを言いたかった。ああ、長かった。つまり大人と子供の最も大きな違いは「周りが諦めてくれるかどうか」にあると感じたのです。上に書いた4つもそうです。目立っていようが下手だろうが爆発的芸術だろうが作者の人格を疑うようなものだろうが、何を作ってどんな出来でも「そんなものだ」と思ってもらえます。完成形だと思ってもらえるのです。作り上げた作品を未完成だと思われることのどんなにやるせないか。これは周りの大人がそう思うという以上に、本人さえも今が途上だと考えてしまうのがしんどいところです。
私はもう自分自身に向上を期待していません。技術や知識を得ることはあってもその間に体力が落ちたり意欲を無くしたり、失うものも多い下り坂の途中にいます。どんな作品ができあがってどう評価されるかよりも、作っている途中、出来上がった時、その時その時楽しいと感じるかを大切にしています。
私の作品を見て「ゴミだ」と思う人がいても私はちっとも困らないのです。ざまあ!これが大人だ!開き直りだ!

若者へ

若者にとっての創作の障害は簡単には取り除かれません。結局のところ、やるなら強い心でやるしかないのです。未来の自分に期待があるうちは技術向上だけに時間を使うのもアリでしょう。何もしないのもアリでしょう。どうせすぐにおじさんになります。いつか何か作品ができたらどこかに公開してください。案外楽しんでくれるおじさんがいるものです。その時までお互い元気で生きていましょう。ではまた。