コミュ障たちはコミュ力を持たないのか

コミュ障発祥の地、SNS

「コミュ障」という言葉をよく聞くようになりました。10年前にはあまり聞かなかった言葉です。
コミュ障とはコミュニケーション障害のことですが、似たような言葉の「通信障害」の「障害」とは意味が異なり、人間の能力の不足を示す言葉として使われています。極端に言えば言語を学習できなかった知的障害者もコミュ障の人と言えるはずですが多くの場合は言語能力が十分にありながら他者との交流のためにそれを発揮できない人を指しているようです。
それ以前の似た言葉では「人見知り」「話し下手」「根暗」などがありますが、これらに加えて「コミュ障」の言葉が世に広まったのには、この言葉の面白い性質が関係していると考えています。それはこの言葉が自虐的に使われることが多いという傾向です。
「コミュ障すぎて話しかけられなかった」
「休みの間ずっと家にいて誰とも会わなかったからコミュ障が悪化してる」
そんな使われ方を多く見かけます。ではどこで使われているのか。私の知る中でもっともよく使わている場所はSNSです。SNSの普及と「コミュ障」という言葉の登場時期はかなり近いのです。
 

それはコミュ障なのか?

SNS以前にもチャットや掲示板等のオンラインのコミュニケーションの場はありましたが、「コミュ障」という言葉はあまり見かけませんでした。そもそもテーマを持ったその場限りの交流が多く、現実の自分自身の生活に細かく言及することは少なかったように思われます。
2010年代以降、スマホの普及とともにSNSは多くの人がオンラインの人格を持つ場となりました。完全匿名で毎日IDが変わる場所では好き勝手な言い逃げもできましたが、SNSでは一定の固定された人付き合いを持つことが一般的ですから失言はしていられません。長く付き合えば匿名であっても人格が言葉ににじみ出ますから自慢や強がりよりも自虐や愚痴の方が話題として差し障りのない内容と言えるでしょうが、文字を通したやり取りの中で「自分は体力がなくて」とか「不器用なもので」とような自虐をしても実際どうなのか分かりませんし、程度が分からないのでは他者も反応し辛いでしょう。そんな場で等しく晒されているのが「コミュ力」です。
コミュ力が本当にないのではSNSは上手く使えません。SNSもままならないのはコミュ障に違いないでしょうが、それではコミュ障を自称する場所も相手も非常に小さく限られます。それを思えば日頃から大勢と無難な付き合いができていながら「自分はコミュ障だ」と言うのは謙遜とさえ思えます。
しかし自称する人たちの多くは、「人と面と向かっては上手く話せない」という状態をコミュ障と捉えています。滑舌が悪い、声が小さい、言いたいことがすぐにまとまらない、適切な表情を作れない、人がいるだけで緊張する、そんな会話上での問題を「コミュ障」の一言にまとめて、逆に言えばそれらすべてをこなしつつ言葉の内容も十分なことを人は「コミュ力」と呼んでいるのです。それは妥当な表現でしょうか。私はそうは思いません。自称コミュ障の人がSNSでは数百もの人と活発に会話をしているのはもはや見慣れた光景です。人を笑わせるほどの話を書く、他人のネタにネタで返す、攻撃的な発言を受けても上手くいなす、すべきでない話をしない等、SNSでのコミュニケーションに十分な能力がありながら対面での会話は上手くできない人が大勢います。その人たちは本当にコミュ障なのでしょうか。
 

コミュ力の要素

弁護士、「ウェーイ」ばかり言う大学生グループ、カウンセラー、「徹子の部屋」の黒柳徹子、私は彼らにコミュ力があるとは一言に言えません。
ぼんやりとした総合的なコミュ力コミュ力とだけ表しながらコミュ障に掘り下げるのは難しいのでその目的ごとに能力を分解して勝手に定義しておこうと思います。
まず大きく2種類に分けようと思います。1つは人に伝える内容を考える「知的コミュ力」、もう1つはそれ以外の、物理的な伝達に関わる「身体的コミュ力」とします。
そして知的コミュ力を、「意味作文能力」、「社会的行動決定能力」、「意思理解能力」の3つに分けます。伝えたい内容を純粋に言葉に対応させる能力を意味作文能力、伝えた内容によって相手がどう思うかを考えてコミュニケーションの結果が適切となるように内容を調整し、または内容を伝えるかどうかも判断する能力を社会的行動決定能力、コミュニケーションの中で受け取った言葉から相手の考えを理解する能力を意思理解能力とします。
身体的コミュ力は分解すると声の大きさや聴力など、コミュ力の一部とは必ずしも言えないものが多く含まれるためにあえて分解しないでおきます。上に挙げた4つの例はそれぞれ、意味作文、社会的行動決定、意思理解、身体的能力には優れているでしょう。ですが他の能力が著しく低ければ「コミュ障」に分類されることもあるかもしれません。能力の過不足を知るためにも要素ごとの検討が必要なのです。
 

会話は速すぎる

文章を作るというのは同じ内容を伝えるなら話をするより簡単です。時間をかけられて、作り直しも可能だからです。私の文章も講義か演説でもするかのような調子ではありますが、「言い直した」部分は消しているので読まれる方にはバレません。文章を書くように時間をかければ満足なコミュニケーションを取れる人は本当はコミュ力があるはずです。そんなオンラインでは饒舌なコミュ障たちを会話の中でコミュ障にしているものは、「言葉を作る時間が足りない」「発声発語の困難さ」「怒らせたら殴られそうな距離感」といった物理的な側面の問題なのです。SNSに生まれた「コミュ障」という言葉は物理的障害を排除して直接的な情報伝達を可能にしたインターネット上においてやっと本来のコミュ力を発揮できた人たちが、話し下手を卑下しつつもオフライン世界の不自由さを揶揄したものだと思います。
令和を迎えた今日、「電話は時代遅れだ」と言う人がいます。確かに、その場で繋がらないと伝わらない、内容を残せない、特別な回線での通信が必要、時代遅れと言われる要因はいくつもありますが時代とともにメリットが無くなったわけではありません。電話のメリット、それは「速さ」です。口で話すより速くタイピングできる人はいますが、会話より速いメールのやり取りはできません。もし110番や119番がチャット受付だったらまどろっこしいと思いませんか?「会話」は原始的でありながら、人間の意思疎通では今も最速の通信なのです。
コミュ障のエピソードとしてこんなものが考えられます。
「人から急に質問されて『あー、えー』ばかり言ってたら『田中角栄か!』とつっこまれた」
作り話です。しかしこれが本当であっても別に恥ずべきことでもなく、むしろ当然のことでしょう。テキストで受けた質問だったら誰もが数秒は答えを考えます。即答できたら田中角栄より凄いというだけで、できなくても総理大臣程度なら目指せるわけです。 スローで高度なコミュニケーションが普及した今こそ、「会話は原始的だから簡単で、誰でもできて当たり前」という認識は正されるべきでしょう。会話は身体的コミュ力が試される難易度の高い意思疎通方法なのです。
 

コミュ力を発揮することの難しさ

前項では会話の難しさの大きなところはその速さだと言いましたが、それだけが会話の難しさではありません。
目の前にいる人と話す場合、「伝わるものが言葉だけではない」ことも知的コミュ力だけが高い人には足かせになります。
人は言葉の意味だけを純粋に受け取るのではなく、発信者の考えを推定しようとします。これをしないことは病気とさえされています。文字コミュニケーションでは句読点や感嘆符の使い方をそのヒントとできる程度ですが会話する距離の人間に対しては年齢、性別、体格、人種、服装、動き、表情、匂い、イントネーション等、多くのものを観察できます。「ピザはほとんど食べません」という言葉を文字で受け取った場合、好みでないか、単に食べる習慣がないのだろうと思う程度ですが、目の前に人がいれば様々な感想を持てます。ご老人だったら一般的なことですし、太っていたらダイエット中だと思うかもしれません。口に赤いものがついていてチーズの匂いがしていたら発言が疑わしいか冗談だと捉えるのも妥当でしょう。ただ、本当にたまにしか食べない人がその日はピザを食べたと知られながら「ピザはあまり食べない」なんて話をするとしたら文字だけで伝えるよりも説得力が落ちてしまいます。会話相手に嘘付きだと思われないようにするならば、しばらくピザの話題は封印するのが賢明なのです。
このように人と向かい合う会話で悪印象を与えたくなければ「どう思われるか」のシミュレーションを高い精度で行うか、悪くは思われないはずの話をする必要があります。多くの人が後者を選択します。つまり「無難な話題」こそが人付き合いに必要なものなのです。天気の話はその定番と言えるでしょう。日本では年間に何十万回も使われる話題があります。 「台風が来ているようですね」 これは人生の必須会話ですが、対応するために何か優れた言葉を用意する必要があるでしょうか。
「来ると言われて台風が直撃しても大抵はいつもより強めの雨風が来ただけという印象でしかありませんし、温帯低気圧とのボーダーを見直して災害と言えるものだけに注意を促して欲しいですね」
なんて答えは必要とされません。
「今はこんなに晴れているのに本当に来るんですかね。ははは」
この程度がおそらく正解なのです。
一概には言えませんが「共感」は人付き合いを良好にするものの定番です。共感ができているなら言葉の出番は少なくなります。一方が思いを言葉にして、共感したもう一方は「確かに」「それな」「おっしゃる通り」、そんなことを言っておけばいいのです。このやり取りには知的コミュ力の中でも「社会的行動決定能力」が求められます。「無駄に高度なことを言わない」のもコミュ力の一部なのです。また知的コミュ力があって適切な内容を考えられても身体的コミュ力の問題で「あ、あの今は晴れで、その、来られ、く、来るんですかね?ひひ」と、リズムの悪い返答をすれば無事「コミュ障」となるわけです。ああ、これがメールだったなら。
人はいつでもコミュ力を持ち歩いていますが、それはどこでも最高のパフォーマンスを出せるということではないのです。
 

コミュ障の改善は可能か

すべてを書く前に言葉の定義でも調べようかと「コミュ力」でGoogle検索してみました。暇な人は自分で検索してみて下さい。定義なんか出てきません。「コミュ力が高い人の特徴」なんてものが出てきます。そのページを訪れた人がそれを知ってどうするのかと言えば真似をして改善するつもりなのでしょう。「駅前の宝くじ売り場で高額当選者が出たから自分もそこで買おう」というような「真似」は馬鹿げていますが、コミュ力の特に知的コミュ力の部分ではルールによって改善可能な場合があるので真似も無駄ではありません。「否定的な返答を避ける」「冗談は冗談として扱う」「自分を晒しても他人には踏み込みすぎない」、たとえばこんなものです。これらを注意しながら言葉を作るのはできていなかった人にとって負担ですが、スローなコミュニケーションの中では確認して改善することもできるはずです。
では身体的コミュ力の改善は可能なのでしょうか。子供なら可能性は高いですが、そもそも未発達なものを大人の基準で評価するのはフェアではありません。大人はどうか。困難でしょう。なぜかと言えば大人になってから肉体能力を高めること自体大変な上に身体的コミュ力は一人では鍛えにくいという問題があるからです。鍛えるとすれば練習相手を探して様々な状況をシミュレーションして会話を行って慣れていくのでしょうが、本当にそんな練習は必要でしょうか。
昨今は声でのやり取りを必要とする状況が減ってきています。通販は電話からインターネットに、回転寿司の注文はインターホンからタッチパネルに、連絡網はメールやSNSで、クレーム対応もメールだけのところが増えました。プライベートな友人との語らいさえも飲み屋からSNSに移した人がいるでしょう。世の中から会話がなくなることはないはずですが、要求される身体的コミュ力は小さくなって行くことでしょう。普通自動車免許ならMT車を運転できますが、2019年の今、AT限定免許でも困っている人がほとんどいないように、「会話は下手ですが何か問題でも?」の時代は緩やかにやってくるはずです。しかし人と共に生きるのなら知的コミュ力は求められます。あまりに低いと法律に触れてしまうことも考えられます。人と会うのが苦手なら掲示板でもSNSでも孤独なブロクでも、どこでも良いので好きなだけ時間を使って考えと思いを文字で言葉にしてみましょう。高負荷トレーニングの筋トレのように実用の機会はなくとも育てる楽しみがあるはずです。そして散々時間をかけて少しの満足な言葉を書いて、「会話でコレは無理だ」と私と共に思いましょう。これが私の丸1日かかった文章です。
 

さいごに

ここまで約5600字ですが、内容がとっ散らかってますね。
もう少しまとめられたら後でまとめますが、一旦気が済んだので次へいきます。 では。